人々は時代に関わらず信心深い。
信仰・布教・宗教
宗教家はなぜ布教活動を行うのかについて考えてみましょう。
まず信仰とは、ある対象を理屈を超えて心から信じることです。必ずしも神や仏に限定されるものではなく、人間や理念、運命や価値観なども信仰の対象となります。
布教とは、自らの信仰を他者に伝え、理解・受容してもらうための活動です。
そして宗教とは、特定の信仰体系とそれに基づく儀礼・倫理・共同体の総体を指します。
布教は基本的に他者や社会へ良い影響をもたらしたいと考える善意に基づいています。大規模に組織化して集金システムが必要となった宗教団体はまた別として、本質的には「良いと自らが信ずる信仰を他者と共有すること」が布教の目的です。
よって信仰と布教は必ずしもセットではありません。始めにそれぞれの人が持つ様々な信仰があり、それが布教されて集団化・組織化することによって宗教が生まれますので、布教が行われず宗教化されない個人だけで信仰されている信念や価値観だって存在します。
現代人の布教活動
現代人は宗教的な事柄を忌避しがちですが、実のところ現代だって何ら変わりなく、組織化されて布教が教義に含まれた宗教団体はさておき、布教自体は宗教に限定された特徴ではないことが分かります。それこそオタクが好きな作品を布教するように、人は良いと思ったものを他者へ紹介したいと思う善意の欲求がある、そういった話です。
「布教」の単語が使われている例を挙げてみましたが、実際には「信仰」や「布教」といったフレーズを使わなくなっただけで人間がやっていることは昔から変わりありません。
それこそSNSなどを見れば分かりやすいでしょう。
「私はこうあったほうがいいと思う」「世の中はこうあるべきだ」「これは社会に良くない」などなど、自らが信仰することを他者へ伝達して啓蒙しようとする人は無数に居ます。
これこそまさに現代人の布教活動と呼ぶべきものです。
一応、もう少し厳密に言えば布教とは「自らの信仰を他者に伝え、理解・受容してもらうための活動」ですので、自らの意見を発信するだけでは少し不足で、理解・受容までがセットです。
よって「私はこう思う」までは布教と呼べる域ではなく、「貴方のその考えは間違えており、その考えは捨てるべきだ」「私の考えが正しい、この考えを受け入れろ」と他者の思想変容を迫るものだけが布教です。
とはいえ言論空間にはその手の布教活動をしている人があちらこちらに見受けられるかと思います。
信仰の優劣
もちろん布教それ自体を否定したいわけではないのですが、ローティ的なリベラル・アイロニストからすればそこまで肯定的でもありません。
リベラル・アイロニストは自らが今現在所有している良心や信念は偶然と環境によって与えられたものであり、それが他者の所有する良心や信念に優越するものではないと考えます。同様に、他者が持つ良心や信念にも偶然性があり、自らの所有するそれに優越するものでもありません。
信仰も同様に、私の信仰が他者の信仰に勝るかどうかを明確に峻別することは難しいですし、ましてや私の信仰が他者にとって良いものかどうかなんて分かりません。
そう考えると結局のところ布教とは独善的な押し付けに他ならず、それぞれの信仰に優劣があり自らの信仰が正しいと信じ込んでいる状態はリスクがあるのではないかと思います。
結言
何が言いたいのかと言えば、「自らの信仰を他者へ布教するのはほどほどにしておいたほうがいいのではないか」といった話です。自らの信仰や価値観を他者に伝えることは人間の自然な営みであると同時に慎重さを要する行為でもあります。
大抵の人は神様仏様への信仰を他者から布教されて強制されるのは面白いことではないと思います。
思想や価値観の布教も本質的には同じです。
「誤った認識や偏見に囚われている人々を正しい方向へ導き、正しい知識や理解を広める活動が世界には不可欠である。無知によって生じる誤解や不正義を是正し、人々の目を開かせ、より良い社会の実現に向けて啓蒙していくことは知識を持つ者の責務であり社会的使命でもある」と妄信するのはそこそこに宗教的ですので、少なくとも自身の信仰心には自覚的であったほうがいいと考えます。