忘れん坊の外部記憶域

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理想主義(夢想家)に対する苦言

 

 理想・夢想・空想に対する言い分の言語化がまとまってきた気がするので、書き出します。少し批判的な視点が強めです。

 

理想主義の定義

 まずは理想主義や現実主義などに対する私個人の考えから整理します。

 辞書的に言えば、理想主義とは「理想的ではあっても現実からかけ離れ、とても実現できそうにない考え方」を指します。そして現実主義とは「たてまえより、むしろ現実に即して考えてゆこうとする立場」です。

 ただ、これらは多少極端な立場と言いますか、それぞれの立場における濃淡を反映していない二項対立的な単純化が過ぎると考えます。

 完全に現実から乖離した夢想を語るだけの理想主義者もいれば、より具体性の高い理想を語って必死に努力する人もいます。

 現実的に物事を捉えて再構築していく現実主義者もいれば、ただ現実に圧し潰されて諦めているだけの人もいます。

 

 よって私としては4つの区分【現状追認主義】【現実主義】【理想主義】【夢想主義】を個人的に用いています。

 現状追認主義とは、現状をそのまま受け入れて変化や改善には消極的な立場です。社会や制度などの問題点を認識しても、それを変えるより順応することを選ぶ安定志向を持ちます。ダイエットで例えるならば、「今のままでいい」「忙しいからできない」と、変化を求めずに何もしないタイプです。

 現実主義とは、理想を否定せず、しかし実現可能性や制約を重視して、できる範囲で段階的な変化を通じて目標を達成しようとする立場です。ダイエットで例えるならば、現在の体重や健康状態を客観的に把握して無理のない目標を設定して持続可能なやり方で着実に成果を出そうとします。

 理想主義とは、「あるべき姿」を信じて理想の実現を強く志向する立場です。理想の価値や正しさを重視して、そのために多少非現実的であろうともやり遂げようと努力することを良しとします。ダイエットで例えるならば、理想の体型や体重を思い描き、それに向かって食事制限や運動をストイックに取り入れて現実の困難に直面しても積極的に行動をします。

 夢想主義とは、理想を追うのではなく現実から離れて夢想に没頭する立場です。実現の可能性や現実的な手段には関心が薄く、より良い状態をただ空想することを望みます。ダイエットで例えるならば、理想の体型を空想して「痩せたら人生が好転する」と夢を膨らませるものの継続性もなく具体的な実行の伴わないタイプです。

 

 このように区分すれば理想主義と現実主義のより具体的な分布を表現することができるでしょう。

 とはいえ、今回は辞書的な意味での理想主義について語ります。

 私が言うところの夢想主義ですが、一般的にはそういった夢想家を理想主義と定義することが多いため、今回は理想主義をそのように定義します。

 表記は理想主義(夢想家)とでもしておきましょう。

 

 私自身は強烈なまでの現実主義者です。物事をより良くすることを志向し、しかしそのためには地に足を付けて段階的に変化を起こしていくべきだと考えています。ドラスティックな変革は必然的な軋轢による「全体のための少数の犠牲」を生み出しかねないため、避けるべきだと信仰している次第です。

 ただ、より良い未来を目指して邁進する理想主義者に対して一種の憧憬を持っていることは事実です。なりふり構わず理想に向けて努力する様は、それが問題を引き起こすこともあるとはいえ、やはり輝かしいものだと考えます。

 しかし、だからこそ、理想主義と夢想主義は明確に分けたいと思っています。理想のために努力する人と、ただ理想を語るだけの人を十把一絡げにまとめてしまうのは忍びないものです。

 よって表記としては理想主義(夢想家)とし、今回語るのはそういった夢想家への苦言です。

 

理想主義者(夢想家)の誤解

 物事を成し遂げるためには高い目標を立てるべきだ、とした考え方があります。チャレンジ目標、ストレッチ目標などなど組織によって様々な表現が用いられており、低い目標はダメで、高い目標こそが素晴らしいものだとした発想です。

 そのように高い理想を持つ人が、その理想の高さを持ってして他者を批判する光景を時々見かけます。

 

 ちなみに、高い目標を立てたからといってパフォーマンスが向上することのエビデンスはなく、むしろ大多数の人にとってはパフォーマンスが低下するとした研究結果はあります。

https://mitsloan.mit.edu/shared/ods/documents?PublicationDocumentID=2840

 

 高い目標や高い理想、そういったものを掲げる人は社会的に賞賛されがちではありますが、実際のところそれはただの認知バイアスです。

 高い理想を掲げるだけの人を賞賛してしまうのは、それが英雄譚的な物語構造を持っているために惹かれやすいこと、自己投影がしやすく自身が努力せずとも代理的に達成感を得られること、そういった道徳的倒錯が生じているだけだと言えます。

 何を達成したかが本来は価値となるのであって、高い理想を持つこと自体には何の価値もありませんましてや理想の高さと人格が連動すると考えるのは論外です。困難に挑む姿勢ではなく、実際に困難へ挑んでいるかどうかこそが評価されなければなりません。

 理想を語るならば、そういった他者からの共感による賞賛を評価基準とするのではなく、自らが真に理想へ向かって邁進しているかを内省すべきであり、他者の理想と高低を競い合っている場合ではありません。ましてやそういった認知バイアスに基づく道徳的優位をもって他者を批判したり、理想の高さを誇っている暇など無いはずです。

 

結言

 理想とはどこにゴールを設定するかの差であり、ゴールの位置ではなく実際にどこまでゴールに向かって進んだかが重要です。

 高い理想それ自体に価値があると思うのは認知バイアスでしかなく、走る努力もせずに高い理想を掲げることには何ら意味も価値もありません。