最近は寛容(Toleration)が人口に膾炙してきていますので、一度見直しを図りましょう。
寛容は美徳か
寛容さは美徳である、とした考えは概ね同意を持って受け入れられるかと思います。
逆説的ですが美徳とは社会にとって良いことです。よって他者を受け入れることや他者の過ちを許す寛容は社会にとって良いことであり、社会にプラスの効果をもたらす寛容さが美徳とされるのは自然なことだと言えます。
ただ、寛容さが美徳であるかを本質的に見ると、若干のずれが生じます。
とても厳しい表現となりますが、寛容の本質とは優越感と軽蔑に他ならないためです。
他者を受け入れる行為において、他者の考えが対等であれば尊重、より優れていれば賛同となり、すなわち寛容とは他者の考えを誤っていたり劣っているものとして捉えています。そこにはある種の軽蔑や優越感を見出さざるを得ません。
一般に寛容さを称揚するのはエリートであり、知的優位であるエリートからしてみれば劣った人の持つ考えや行為を容認することが寛容に他なりません。
さらに厳しく言えば、それは愚かさの放置ですらあります。他者の考えを望ましくない、間違えている、劣っていると考えていて、しかしそれでもその愚かさを無視して放置することを選択するのが寛容さです。
それが本質的な美徳かと言えば、少しばかり疑問です。
寛容の取り扱い
もちろん前述したように寛容さは社会的な美徳であることは疑いようもありません。対立を暴力や排除によって解決するのではなく受容と対話で解消しようとする姿勢は社会全体の摩耗を抑えて社会の安定性に寄与するものであり、決して悪いものではないでしょう。
さらに言えば、それらは宗教的な赦しや慈悲に相当するものでもあり、道徳的な価値の高い行動でもあります。
もっと言えば、多様な社会を構築するためには寛容さが不可欠です。
ただし、無批判に寛容を賞賛すべきかと言えば、やはりそれは疑問です。
本質的に優越感と軽蔑を伴う寛容は平等や対等からは乖離した概念ですし、自己の優位性を誇示する偽善的な手段としても使われます。他者の愚かさを容認することはある意味で責任回避に他なりません。
そのような両面性を持つ寛容は、つまるところ匙加減次第です。
「何に対して」「どのような理由で」「どの程度必要か」を吟味する必要があり、無制限の寛容はただの偽善と成り果てます。寛容は無条件に美徳として称揚されるものではなく、むしろ批判的に、対話と責任を伴うあり方が模索されなければなりません。
結言
寛容は概ね良いものですが、本質的には優越感と軽蔑を含意した概念であり、無批判に美徳とするのは不適切です。
必要な時に、必要に応じて、適切に用いられた寛容だけが良いものとなります。
今回は寛容に焦点を当てましたが、もちろんこれは寛容に限った話ではありません。
ありとあらゆる美徳は、それが無批判に拡大した場合に悪徳となります。
美徳とは、それを持っていることではなく、それをどう取り扱ったかが重要なものです。