忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

自国を侮辱する権利と、その共同体主義について

 

 個人主義者の目線。

 

自国を侮辱する権利

 国旗損壊罪に関するニュースを見かけました。

 それ自体に対しては、諸外国でもそういった法律は有るところもあれば無いところもあるので頭ごなしに肯定/否定するのではなく必要かどうか議論をすればいいのではないか、とはいえ外国国章損壊罪とちゃんと整合性を取れればとりあえずは制定しようがしまいがどちらでもいいだろうと思っています。

 そもそも法案の中身がまだ発表されていないのですから細部の議論をしようがありませんし、外国国章損壊罪と整合を取るならば大した影響もありません。

 以下で述べていくように、基本的には自国と他国の国旗を分ける意味はないだろうと考えていますが、むしろ経済や安全保障と比べれば「どうでもいいこと」の部類であり、個人的にはそこまで関心を持てないテーマです。

 

 ただ、このニュースに対してのコメントで気になるものを見かけました。

他国の国旗は他国の象徴であり損壊してはいけないが、自国の国旗は損壊する権利が自国民にはある

 どうにもこの理屈が分からないので、少し考えてみます。

 

 まず前段は国際的な礼儀や外交的配慮として一般的な考え方です。

 国旗はその国の国民・文化・歴史・主権などを象徴するものであり、それを損壊する行為は他者への侮辱や敵意の表明と見なされます。だからこそどの国もイベントなどでは国旗を大切に扱いますし、今日も世界の何処かでアメリカやフランスや日本の国旗が燃やされています。それが侮辱や敵意の表明になるとした共通認識があるためです。

 

 その点からして、自国の国旗を損壊する行為はシンプルに自国を侮辱するものですが、なぜ他国はダメで自国なら侮辱していいのでしょう?

 他国では国旗を損壊することに関する法律は日本のように自国と他国を区分していません。自国であろうと他国であろうと侮辱を目的として国旗を損壊した場合は罪となります。

 日本が分けている理由としては「国際的な友好関係や外交関係の平穏が目的であり、自国国旗はそうではない」とされていますが、他国の場合は主に「公共秩序の維持」を保護法益としており、公共秩序を維持するための法律は日本にも多数あることから同様の理屈を採用して自国の国旗を損壊することを罰することも可能でしょう。

 表現の自由や弾圧的かどうかも同様に、自国と他国を分離するだけの意味合いは持ち得ません。単純に両方問題視するか、両方許容するかだけです。ヘイトスピーチを禁じる法があるように、基本的に侮辱行為は表現の自由を上回らない方向へ世論は傾きつつあります。

 

 自国を侮辱することは許容されるとした発想はある意味で日本的です。これは自己批判的行為、謙遜の一種である「身内は下げてもいい」とした発想があると考えます。

 何より、自国の国旗を侮辱されて怒るのは「愛国的な共同体主義者」が主かもしれませんが、所属している共同体を侮辱する人は愛国者と同程度に共同体へ依存している共同体主義者のように見えます

 

身内を下げる行為

 他所は侮辱してはいけないが自分や身内は侮辱していい、その根底には日本の謙遜文化が根強くあるのではないかと愚考しています。

 控えめに遜るこの文化はクローズドな島国の村社会における全体の調和を乱さないために育まれてきたものであり、ある種の集団主義・共同体主義です。「敵」を作ると逃げられない、「敵」を打ち倒しても集団の生産性が落ちるため宜しくない、そんな環境においては「敵」をそもそも作らないことが美徳とされます。他にも儒教的価値観や身分制度がこのような謙遜文化へ影響を与えたのでしょう。

 何にしても、謙遜文化では自ら遜る場合において内輪への批判や侮辱が許容されます。

 

 自国を侮辱されて怒るのは、単純化した事例を挙げれば「愛国的な共同体主義者」でしょう。いわゆる右翼的な方々です。

 対して自国を侮辱する自由を許容する方々は、もちろん幅広くあるものの概ね右翼的な方々の反対、リベラリズムである左翼的な方々だと思われます。

 しかし「自国を侮辱する行為」が先に述べたように謙遜文化的な意味合いを持っているとすれば、そこにあるのは”自分は国家の一部である”とした身内感覚です。そこには別の形での共同体主義があると、私は考えます。

 右派も、左派も、どちらも国家への一体感を持った、形が異なるだけの共同体主義です。

 

 国家という共同体は家族や企業よりも規模や多様性が桁違いであり、単純に同質の一団と単純化できるものではありません。それこそ今回の論考のテーマである自国国旗の損壊一つ取っても、それを是とする人と非とする人が内包されているのが国家であり、「我々の自国を侮辱していい」と「我々の自国を侮辱するな」は同時に存在します。

 それでも自国を侮辱していいと考えるのであれば、それは「侮辱を非と考える人も含めて国家を身内だと考える共同体主義者」か、或いは単純に「国家を身内として捉えておらず、ただ他者に対する敬意が欠けているために侮辱している」のか、どちらかでしょう。

 もちろん"どちらか"ではなく"どちらも"いるのでしょうし、他のパターンも多数あるのでしょうが。

 

結言

 私なんぞは個人主義を教わってきた世代ですので、国家と個人は別であり、だからこそ自国であろうと他国であろうと安易に侮辱するべきではないと考えます。自国であっても「私」ではない別の他者の集合であり、それに対する侮辱は敬意に欠けているのではないかと思います。

 そうではなく自国は身内であり侮辱していいと考えるのであれば、それは右派とは異なる形で国家との一体感を感じている共同体主義ではなかろうかと思う次第です。

 もちろんその是非を問うわけではありませんが、まあ似た者なのだろうなとは思います。そう考えると日本はある意味で同質的な集団であり、身内意識が芽生えるのも納得です。