忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

道徳を共有することが社会問題を議論する上での前提

 

 道徳はある意味で公理であり、これが異なると議論は成り立ちません。

 

 少し辛辣な話をしましょう。

 

道徳の目的

 大仰な話となりますが、道徳の目的とは「他者と共に、よりよく生きる」ことです。

 ”他者と共に”であることが重要なポイントと言えます。

 道徳の基礎的な概念は複数ありますが、基本的に個人を対象とはしていません。功利主義は言わずもがなで関係者全体の幸福を最大化する思想であり、人間全体を焦点とします。道徳性を行為の性質や動機に置く義務論も、その義務を果たす根底にあるのは個人ではなく"人々のよりよい人生"に他なりません。

 道徳において議論される幸福・正義・公平・自由・尊厳などの項目はいずれもそれらを適切に築き上げていくことで他者と共によりよく生きることが目的と言えます。無人島で一人生きるのであれば道徳は不要なものであり、道徳は社会的な概念です。

 

利己主義と道徳心

 このように道徳を「人々のため」のものと考えた場合、主義によって”人々”の取り扱いが異なる点が影響を与えます。

 全体主義(Totalitarianism)は”人々”を1個のものとして考えます。そのため個人の自律や人格を無視してでも全体としての国家や集団の利益・秩序を優先することが「人々のため」であり道徳的だと解釈されます。

 個人主義(Individualism)は”人々”を別個の集合だと考えます。個人の価値観や権利を国家や集団よりも尊重することがトータルで「人々のため」となり道徳的だと判断する思想です。

 

 それらに対して利己主義(Egoism)「人々のため」を前提としていない主義主張です。

 個人主義は”個人”、すなわち他者の価値観や権利をも同時に尊重する立場であるのに対して、利己主義は自分(自分たち)だけの権利や快楽を追求する思想だからです。

 少し極端で過激な言い分となってしまいますが、道徳の根幹である”他者と共に”を想定してしない以上、利己主義者は道徳心が無いと述べることもできるかと思います。

 

社会問題の議論におけるノイズ

 社会問題を議論する場ではいくつかの暗黙の了解が存在します。

 それは例えば「社会全体の福祉や秩序を志向すること」「他者の存在と尊厳を認めること」「共同体の問題を自分事として捉えて協働的に向き合うこと」などです。

 このような共通認識を持たず利己主義的見解を持って社会問題の議論へ参加する人がいると、他者を尊重せずに「自分(自分たち)にとって得か損か」を基準とする目的のすり替えが生じますし、他者への配慮が軽視されたり社会的共通善を否定するようになり議論の質が劣化します。さらには他者の存在を透明化して「自分(自分たち)」が全体であるかのように振る舞うことすらあります。

 

 社会問題を解決して改善することが議論の共通目的であり、そのためには道徳的基盤を共有して「他者と共に、よりよく生きる」ことへの共通認識が不可欠です。

 よって少々苛烈な見解となりますが、他者の存在や尊厳を認めずに社会全体の福祉や秩序への関心がない利己主主義的見解は、社会問題を議論する場において横に除けておく必要があります

 

結言

 道徳とは社会的な概念であり、社会問題の議論は他者の存在や権利を認めて共通善を志向する前提、すなわち道徳がなければ成立しません。

 もちろん個人がどのような主義主張を信奉しようとそれは自由です。

 しかしながらそれはミクロな個人の範囲までであって、マクロな社会全体の問題を議論する場では道徳的基盤を共有していない見解はノイズとなります。

 

 これは線引きを意識することが意外と難しい問題です。

 問題提起は利己的ではなく全体や個人主義に基づいた道徳的な形式を取る必要があり、「この問題を解決すると社会全体がこれだけ改善されてみんなの為になります」としたアプローチが必要となりますが、人はつい「この問題が自分(自分たち)にこれだけ不都合を与えている」と問題提起をしてしまいがちなものだからです。

 そして残念ながら、たとえそれが事実だとしても、後者のアプローチは他者の道徳的協調を引き起こしにくく社会問題の議論がより拗れる原因となりかねません。