なぜ人は理性と感情を対立させてしまいがちなのか。
一緒に働けばいいじゃない。
理性を肯定するリスク
理性と感情のどちらを優先するかは古来より人類社会で議論され続けてきた一大テーマです。
とはいえ、その議論は若干非対称的ではあります。「理性よりも感情」を優先することと比べて、「感情よりも理性」を優先することは人格否定を招きかねない構造を持っているためです。
まずそもそも「理性と感情のどちらに人間味があるか」とした問自体が人によって異なる解釈を持ちます。
生理学的に見れば「理性」こそが人間的機能です。感情は大脳辺縁系が主に司る機能であり脳機能が発達した他の動物も感情を持っているのに対して、理性は前頭前野が主に司っている高次機能でありそれらに基づく倫理や論理的思考は今のところ人間の代表的な特徴だと言えるためです。
対して、文化的に見れば「感情」こそが人間的機能です。感情の強さは集団の絆や危険への即時対応に不可欠であり、心を動かされる作品は人間性の深さを感じさせるものとして高く評価されるように、社会的集団が感情の強さを高価値と認識するのは自然な流れだと言えるでしょう。
理性派は「人間と動物の対比」であり、感情派は「人間と機械の対比」であるとも例えられます。想定している対比の構図が異なるのだから、感情と理性の対比で折り合いが付かないのも当然のことでしょう。
このように、本質的にはどちらも正しく、ただ構図が違うだけなのですが、その肯定否定には前述したように非対称性があります。
理性の否定は「人間にある動物性の肯定」であり、その含意するところは「未熟」「衝動的」「本能的」のような特性の否定に限定されます。
対して感情の否定は「人間ではない機械性の肯定」となるため、必然的に「非人間的」「人格がない」といった根源的な人格否定にまで至ります。
このような構図の非対称性があるため、理性を否定する言説と比較して感情を否定する言説は非常にリスキーです。
長所と短所の比較
「情に従い、親しい個人を救うか」「道徳に従い、大勢を救うか」の選択は物語のテンプレートとして昔からありがちなものですが、実際のところ絶対的な正解はありません。どちらを選んでも説明はつけられますし、双方にメリットデメリットがあります。
理性に基づく道徳は、一貫性や公平性、予測可能性や持続性などに優れている反面、先に述べたように人間性を否定されるリスクを持っています。
対して情は、柔軟性や反応速度に優れており、そのために偏見や誤認、衝動的判断のミスを犯すリスクがあります。
要するにダニエル・カーネマンが言うところの「システム1」と「システム2」です。
直感・共感・反射的反応を持ち無意識的かつ自動的に働く「システム1」は感情による機能であり、熟慮・判断・規範意識を持ち意識的かつ論理的に働く「システム2」は理性による機能だと言えます。
よって二重過程理論に従い、そもそも理性と感情を対立させることに意味は無いのでしょう。これらは分業モデルであって、役割分担によって同時に機能するものです。
困っている人の表情や声へ即座に反応して「助けなければ」とした感情を湧かせるのは感情を司るシステム1の仕事であり、その感情を受け止めつつ「どう助けるのが最も適切か」「誤認のリスクはないか」「他者の権利を不当に侵害しないか」などを検討するのは理性を司るシステム2の仕事です。
感情が注意喚起をし、理性が判断を行う。
どちらも活用して包括的な意志決定を行うことこそが真に人間的であると言えるかもしれません。
結言
情がなければ気付けず、理性がなければ誤ります。
対立的・排他的に取り扱うのではなく、理性と感情はどちらも大切にすべき機能です。