忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「平和主義」を守るのではなく「平和」を守るべき

 

 私は「平和主義」を守るのではなく「平和」を守るべきだと考えています。

 何度か語ってきた内容ですが、ちょっと長めに語ってみましょう。

 

手段と目的

 「平和主義を守るべきだ」と「平和を守るべきだ」は似ているようで異なる立場です。

 

 前者の「平和主義を守るべきだ」は、憲法9条に象徴されるような「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」といった理念を重視し、手段としての非暴力・非武装を重んじます。

 また、平和と戦争を対比のものとし、平和とは戦争をしないことによって実現できると考えることが一般的です。

 そして平和主義そのものに道徳的な価値があると考えます。

 このような公理に基づき、平和主義を守ることは平和を守ることと同義とされる立場です。

 

 後者の「平和を守るべきだ」は、理念重視ではなく目的志向的です。

 「平和」は「戦争」の対義語ではなく、戦争に限らず飢餓や不自由のない「社会が乱れていない状態」が平和だと捉えて、その維持を優先する考え方です。

 そのための手段は必ずしも非武装や非戦に限らず、必要に応じて抑止力や安全保障政策も検討対象となります。

 このような公理に基づき、「平和主義」と「平和」を明確に峻別する立場です。

 

 あまりにも率直過ぎる言い回しとなってしまいますが、「平和」よりも「平和主義」を重視することは手段と目的の混同という古典的な問題に陥っていると私は考えます。主義主張・信念・イデオロギーは「平和」よりも価値が高いかと言えば、「平和」をこそ価値あるものとすべきではないかと考える次第です。

 「信念を貫き、戦争を避けるために平和主義を堅持して殺されても貫くべきだ」と考える方もいらっしゃるとは思いますが、それは戦前の「お国のために死ね」とベクトルが違うだけの同根のように思えます。

 

平和主義へ固執する理由

 日本において「平和主義」の価値が高く評価されているのは色々と理由があると考えます。

 歴史的トラウマとして戦争に対する忌避感が強いことは間違いありませんし、憲法9条自体が個人ではなく国家のアイデンティティとしても確立しています。そのため、長年にわたって制度化され、教育され、政治的スローガンとなった「平和主義」が次第に神格化されたのだとしても仕方がないのかもしれません。

 また、「平和主義」は道徳的に優れたイメージを伴いやすく、自己の倫理観を示す手段としても機能します。特に日本は過去の戦争の贖罪意識から「平和主義」を主張することに高付加価値な道徳的優位性が付与されがちです。

 さらに単純な側面として、保守とリベラルの対立軸において「平和主義」を保持することが政治的立場や社会的アイデンティティの表明へ直接的に繋がることから、使い勝手の良い道具としても高い価値を持ちます。

 

 もちろん「平和主義」が固執される理由はそういった道徳的・政治的価値の高さだけではないでしょう。

 「平和主義」の否認は先に述べたように非武装や非戦の放棄と同義であり、直接的に「軍拡」や「戦争準備」と繋がります。それらが直接「戦争」とイコールではありませんが、警戒感を持つのは当然のことです。

 戦争の再来の恐れ、戦後日本の理念を失うことの不安、道徳的一貫性を保ちたいと考える誠実さ、平和への希望、そういった複雑な感情と歴史的背景が「平和主義」の価値を高めているのだと考えます。

 

結言

 私は「平和」を守りたいと思っていますが、それは形式合理性よりも実質合理性を重視しているためです。今回はその立場からの見解を整理しただけであり、「平和主義」を守りたいと思っている側からはまた別の見解があるでしょう。

 

 いずれにせよ、「平和主義」を守りたい人も、「平和」を守りたい人も、手段と目的の焦点が異なるだけで共に「平和」の理想を持っていることは疑いようもありません。

 よって両者で喧嘩をする必要はなく、形式と実質のバランスを取れるように議論をしていけばいいと思っています。「平和」を求める人同士で争うことは、この世で最も愚かなことの一つでしょう

 

 

余談、と言うには重い別の何か

 今回のような「平和」をテーマとした考察や議論を行う際、「平和」を議論の武器として用いるべきではありません

 雑な例示ですが、「こちらは平和を求めている、こちらの意見に同意しないのであればお前は平和を求めていない、そんなに戦争をしたいのか」といったようなやり方です。

 これはシンプルに詭弁論法になりますので、控えたほうがいいでしょう。

 

 多くの社会で「平和」は道徳的に望ましい状態とされます。戦争や暴力は「悪」ですので、平和は当然「善」です。

 よって「平和を語る人」は自動的に「善の側」に立つと認識されます。

 そして公共空間における議論の場では、道徳的に優位で善の側に立つことが正当性を高める手段となります。

 極端な話、「私は平和を望んでいる、だから私の主張は正しいし私に反対する主張は正しくない」とした論理性の無い意見すら、下手をしたら平和が持つ立場の強さで押し切れてしまいます。

 

 本来的に「平和」と「人格」は別次元の話ですが、これがまた思った以上に容易に混同されます。

 「平和を語る者は善人である」とした人格評価は、本来は異なる基準のはずなのにまるで事実のように見えることでしょう。

 同様に、「平和を望まない者は非道徳的な悪人である」も、実のところまったく論理的ではないのに正しそうに思えるでしょう。

 これらは典型的な二分法の誤謬ですので、陥らないように、或いは用いてしまわないように気を付ける必要があります。