”悪”は意味が広すぎる。
とてもややこしい話をします。
"悪さ"の質的違い
騙す方と騙される方、どちらが悪いか?
もちろん特に議論の必要もなく騙す方が悪いのですが、時には「騙される方も悪い」と、騙される側の悪性が批判される声も耳にすることがあるでしょう。
「騙されることは騙す人の利益に繋がるから間接的に騙される人も悪いのだ」など騙される側の悪性を批判する言説は、それこそ「生まれてこなければ犯罪の被害にあわなかったのだから生まれてきた方が悪い」レベルで明確に論理破綻しているのですが、実際問題として、騙されないような自衛の努力を怠ること自体はあまり宜しいことではありません。
このややこしいところは”悪”が含意する意味の幅広さです。
"悪"は辞書的に3つの意味を持っています。
一つは「正しくない、悪いこと」、悪質・害悪・凶悪などの道徳的悪。
一つ「不快な、いやな」、悪臭・悪感情などの感情的悪。
一つは「よい状態にない、上等でない」、粗悪・劣悪などの価値的悪。
これらはレイヤーが異なるものであり、適切に峻別する必要があります。
騙す人は明確な道徳的悪です。道徳・倫理・善悪のレイヤーで悪であり、社会的に許容できるものではありません。
騙される人は価値的悪です。決して道徳や倫理に問題があるわけではなく、道徳的悪とは異なって批難されたり社会的な排除が必要となるものではありません。
物凄く嫌な表現を使ってしまいますが、「騙す人は道徳心が悪く、騙される人は頭が悪い」ということになります。
言い訳がましく繰り返しますが、頭が悪いことは決して道徳的悪ではありません。目が悪い、歯が悪いなどと同じように、ただそういった価値的な状態にあるだけのことです。頭が悪いことを道徳的悪と混同するのはメリトクラシー・能力主義・功績主義を内面化し過ぎている場合の誤謬です。
"悪"の混同
これら3つの悪は同じ言葉を使っているせいで容易に混同されます。
人はしっかりと意識していないと「私にとって不快な感情を引き起こすもの」や「他者と比べて相対的に劣っているもの」をまるで道徳的な悪であるかのように考えてしまいがちなものです。
それこそSNSでの議論というのも憚られるレスバトルでは、不快や能力の低さを理由に社会的な排除をしようとする人はよく見かけるでしょう。本来、不快であることや能力的に劣ることは排除の理由足り得ないのですが、それが道徳的悪と混同されることで社会から排除すべきものだと見えてしまいます。
これはただの認知の歪みなのですが、そこそこに意識していないと陥りがちな誤解なので誰もが気を付ける必要があるでしょう。
結言
見分ける方法は簡単で、"悪"について自分や誰かが語る時は、それがどんな悪であるかを考えるだけです。道徳的悪なのか、感情的悪なのか、価値的悪なのか、ちょっと考えれば容易に区分することができます。
道徳的悪は法的に対処すべき問題であり、感情的悪や価値的悪は少なくとも強制力を持って社会から排除する類の悪ではありません。