ちょっと心配。
思った以上にヘヴィなテーマな気がするので、語り口はいつもよりも緩めにします。
人種的差異の社会的否認
SNSのニュース欄で、「日本は人種的多様性が世界最下位」みたいなヘッドラインを見かけました。
どんな基準で集計されたランキングなのかは分からないのでその正誤については論考しませんし、国際ランキング好きとしてもそこまで興味が湧くものでは無かったのですが、ちょっとだけ気になるのは、その考え方は大丈夫なのか、です。
というのも、過去の人種差別の歴史への反省から、現代の私たちは人種的差異を社会的には認めないことになっているわけじゃないですか。
基本的には個人差が大きいのであって人種的差異をステレオタイプに当てはめるのは不適切である、それが社会的に正しい振る舞いになっているはずです。
もちろん実際には、人種的な傾向や特徴は現実にあります。様々な分野で一定の偏りは検出されていますし、トップレベルでは明確に傾向が生じます。
トップレベルで傾向が出るのは、ある意味でリアルです。トップレベルはどこも極限まで高みを目指した状態であり、人間の努力も周囲の環境も全てを整えて注ぎ込んだ結果ですので、そこで差が出るのはそれこそ先天的なものに他ならないでしょう。
ただ、名目上、だと表現が強すぎるかもしれませんが、それを認めてしまっては社会的に優生学的な選別と差別が正当化されかねない、そういった懸念から、私たちは人種的差異を声高には語らないようにしているはずです。
なにせ利点と欠点は表裏一体と言えます。たとえ強みであっても下手にそれを称揚するとそれ以外の人々を貶める結果となりかねません。「○○○人は頭が良い」とした表現ですら、「○○○人以外は頭が悪い」と受け取られかねない以上、避けたほうが無難でしょう。
差異を前提としている
その点で、人種的多様性という言葉は非常にリスキーな言葉ではないかと思っています。
これは前提に人種的差異があることを認めている考えに他ならないためです。
人種によって差異があるからこそ多人種の集団には多様性がある、そうした意味以外の何物でもなく、私たちが暗黙の了解として社会的に否認している人種的差異を認めている考え方と言えます。
それは長じると過去の優生学的人種差別と地続きになってしまうのではないか、そういった懸念を感じました。
せめて、ここで比較すべきは"人種"ではなく"文化"でしょう。
文化的多様性であれば、文化に差異があることは誰もが認められますし、むしろ差異があるからこその文化です。
文化であってもそれに優劣をつけて差別をする人はいるでしょうが、まだ穏便と言いますか、人種は先天的なものであり文化は後天的なものですので、まだ優劣が致命的にアイデンティティへの攻撃とはなりにくいかと考えます。
もちろん、文化の優劣を付ける行為も駄目なんですけども、まだマシという話です。
結言
言葉は悪いのですが、人種差別が行われているからこそ人種的多様性という言葉が出てくるのではないかと考えます。
素朴でナイーブな結論となってしまいますが、真に人種差別がない社会とは、人種的多様性をそもそも気にしない社会ではないでしょうか。