忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

連帯意識の功罪とその是非に関する考察

 

 功罪ある概念は取り扱い注意。

 

連帯意識の多様性

 人によって連帯意識を感じる強度と範囲には個人差があります。

 家族を仲間と思う人もいれば、同じ組織で働く人を仲間と認識する人もいます。性別や職業、同じ地域や同じ国家に所属していることを連帯の理由とする人もいれば、それこそ地球市民のように同じ人類であることに連帯意識を持つ人もいるでしょう。或いは、誰にも仲間意識を持たない孤高の人だっています。

 

 個人差の理由は様々考えられます。

 アイデンティティの選択自由度、過去の経験や単純接触効果、創造力や自他境界の差、報酬とコスト、文化的差異、などなどいくらでも挙げられそうです。

 いずれにせよ、連帯意識は個人のアイデンティティと強固に結びついたものであり、基本的にはその強度と範囲の差は善悪や正誤で語ることではないと考えます。

 

他者の連帯意識を否定する理由

 反対に、他者の連帯意識を否定する人もいます。

 「同じ会社の一員だからって別に助け合う必要はない」「同じ日本人だからといって仲間なわけではない」といったようにです。

 その背景も多数の理由があるものと推察できます。

 例えば個人主義者は属性よりも個人を重視するため、連帯意識から生じる同調圧力を好まないでしょう。或いは同一化に伴うアイデンティティの変質を拒絶する目的かもしれません。

 連帯意識が差別や国家権力による統制を引き起こした歴史的事例を危惧している場合もあるでしょう。

 もしくは普遍的な人間的連帯、地球市民を意識していることも考えられます。

 自己決定権の尊重として、属性によって自動的に付与される連帯意識に反対しているパターンもありそうです。

 

連帯意識の功罪

 個人的な意見としては、「自分と合わない連帯意識を持つ人がいても、それを否定する必要はない」と考えます。

 連帯意識は個人のアイデンティティに連結している以上、それを否定することは人格否定になりかねないと考えるためです。

 

 ただ、連帯意識にはある種の功罪が存在するため、肯定と否定に意見が分かれるのは必然的です。個人的には「そもそも他者を攻撃すべきではない」とした考えを持っていますが、悪いものは悪いものとして批判される必要性もあるでしょう。

 連帯意識は「身内であれば弱者であっても保護をする動機」になりますが、それは同時に「身内以外を排除する排外主義」にもなり得ます。

 連帯意識は「協働を促進して力を合わせる推進力」になりますが、それは同時に「個人の意思や多様性を無視する同調圧力」にもなり得ます。

 「同じヨーロッパの仲間を守れ」としてウクライナを支援する欧州の左派と、「自国民を移民から守れ」と語る欧州の右派は、ベクトルが異なるだけでどちらも連帯意識に依るものです。

 

アイデンティティの尊重

 連帯意識の二面性で難しいのは、その線引きが必然的に恣意的となることです。この連帯意識は良い、この連帯意識は悪い、と万人が納得できる基準がなく、誰もが自分の好む連帯意識の強度や範囲に基づいて線引きをしています。それは社会的合意や普遍的道徳に沿っているとは限らず、どこまでいっても個人の好悪に過ぎません。

 なにより前述したように、連帯意識は個人のアイデンティティとして機能することから、連帯意識の安易な否定は人格否定に繋がりかねません

 よって、たとえ批判されるべき連帯意識の発露であっても、ただ直接に否定するのではなく、連帯によって生じている作用や問題を対象として寛容な態度を持って批判しなければならないと考えます。

 「ある連帯意識」が問題を引き起こしているのだとしても、それが個人の人格を否定していい理由にはならないのですから。

 

結言

 連帯意識はそれ単体で普遍的な評価や正誤を定められるものではなく、その作用や目的によります。

 そして連帯意識の安易な否定は人格否定になりかねないことから、控えめに、少なくとも一定の尊重を持って注意深く批判を行う必要があると考えます。