中国へ行ったのもまだ三度目ですが、訪中している間に考えていた中国に対する雑感を語ってみます。
貧富の差
中国へ行く度、とにかく金持ちと貧乏人の差、貧富の差を強く感じます。
平成後期頃から「中国は発展している、もはや日本以上だ」とした言説がありますが、たしかに都会は日本以上に発展しており、大富豪も多く、上海などの都市を見ればもはや今は中国の世紀だと感じるのも妥当な感想でしょう。
ただ、実際は全てがモザイク上です。
住んでいる家ひとつ取っても、右を見れば煌びやかなビルやオフィスが建ち並び、左を見ればいつ崩れてもおかしくないと思える傾いて煤けた居住用のビルがある。
走っている車ひとつ取っても、外車や高級車と並んでまったく整備されていない薄汚れて傷だらけの車が走っている。
着ている服ひとつ取っても、立派に仕立てられた服やスーツを着ている人もいればボロ布を纏っている人もいる。
今回、私はその地域でも成功している会社へ訪問したため、ホテルは立派な所へ泊まっていますし、送り迎えはベンツやレクサス、食事も一食何万円もするような所で歓待を受けました。
しかしホテルの入口から外を眺めると、目の前にはまだ人が住んでいる廃墟のようなビルがあり、道にはボロを纏って大きな籠を背負って歩く老人が歩いており、ホテルを車で出ると物乞いのような格好をした女性が何か買ってくれと車の窓を叩いてきました。
もちろんこのような光景は中国に限った話ではなく、何処の国でも、それこそ日本でも探せばまだ存在するでしょう。
しかしそれが大都市のど真ん中、さらに言えば中国で見られるというのは、鄧小平の先富論の理屈は分かりますが結局のところ共産主義とはいったい何だったのか、少し考えさせられます。
失敗を許容できる規模
中国人の同僚とはよく独裁制と民主制の違いについて議論しています。
同僚は共産党独裁の利点として計画経済による資本集中の強みを語り、私は民主制の利点として政治が失敗した時の政権交代のしやすさを語ります。
そして、国家の規模によって適した政体は異なるのではないかと私は結論付けました。
独裁制はたしかに効率的で合理的です。土地が必要ならば住民を強制的に退かしてしまえばいいですし、たとえ地方の国民が困窮しようとも福祉ではなく成長産業に投資すればいい、そうした合理的な選択が独裁制ならば可能です。
しかしそれは独裁者が間違えない場合の合理性でもあります。失策をしてもなんとかできるだけの国力や規模があるからこそ選べる方向でしょう。
そこらの中小国の独裁が大抵短命で終わっていることからも分かるように、独裁者の失政は国家の命数を致命的に損ないます。
極端な話、日本の規模であっても大躍進政策や文化大革命レベルの失敗をしたら国家を維持することはできないでしょう。それが中小国ならなおさらです。数千万人の民が死んでも国家を保てるのは、それ以上の国民がいるからに他なりません。
つまるところ、中国の共産党独裁が今のところ成功しているのは、それが優れた政体だからではなく中国だから成功しているのだと考えます。失敗してもなんとかなるだけの規模があるからこその政体です。
それは称揚に値するのか、それとも別の評価軸が必要なのか、先の思索が必要になるでしょう。いずれにせよ、独裁と民主の対立軸、ただの二項対立として是非を問うことには意味がないかと思われます。
結言
大陸国家としては非常にアメリカのようであり、文化の基礎はやはりアジアであり、合理性の高さで言えば欧州的でもある。
中国は先進国からすれば異質な国家ですが、それは中国だからそうなのではなくただ国家毎に特色を持っているだけで、国家を理解する上では何かしらの一側面を見るだけではまったくもって不十分だとした当然の事実を再確認するばかりです。単純化した二項対立的なタブロイド思考を避けて、複雑さをそのままに理解する努力が必要になります。