コーヒーの香しさが幾重にも漂う中、カーテンを透かしてなおも拡散しながら届く午後の光を淡く浴びつつ、私は窓際の席で本を開いていた。没頭するほどでもなく、漫ろに流すほどでもなく、しかし無関心でもないまま僅かに霞む文字列を追い、人々の声によって穏やかに振幅する時間に揺られている。
時折、あるいは気まぐれに、しかし習慣のように訪れるこの喫茶店でのひと時。
今日の音源は、隣の席の対照的な男女だ。
「昔に比べて、なんだか夜道が安全になったと思わないか?」
男性の声は妙に含みをもって低く、店内の空気を変質するかのように響く。「犯罪も減っているし、道端にはゴミだってほとんど落ちていない。電車の遅延どころか車の渋滞だって少なくなっている。これは自然じゃない、おかしいだろう、誰かが裏で仕掛けているに違いないんだ」
彼の手元では、先ほどアイスコーヒーに注がれたミルクが無軌道な渦を描きながら黒色と混じり合う。
相方の女性は明るい調子で柔らかに返す。
「仕掛けなんてないでしょう?警察や企業努力の結果であって、ちゃんと理由があるの」
男は机に手をついてわずかに身を乗り出す。「でもさ、コンビニの弁当が深夜でも無くならないのは不自然だろ。物流が完璧すぎる。まるで見えない力が働いてるみたいじゃないか」
その言葉へ呼応するように、時計の秒針が午後二時を示す鐘を小さく鳴らした。その律動が、何故だか妙に規則正しく感じてしまう。
女性は苦笑し、男性のストローに手を添えてゆっくりと揺動させた。「それは需要予測と在庫管理が進歩したからでしょう。みんな改善を頑張っているんだから」
ミルクは自然に拡散し、アイスコーヒー全体へと静かに広がっていった。時計の長針もまた一分を刻み、定められた通りに次の位置へと進んでいく。
二人のやり取りは続き、私は思わず本を閉じてしまった。
男性の言葉が響くたび、店内の細部に意味が生じる。
女性の言葉が流れるたび、店内の波及に必然を感じる。
何かを待ち合わせていたのだろう、やがて二人は議論を切り上げて店外へと歩み去った。
残された静けさの中で、私はふと気づいた。
この喫茶店の落ち着いた雰囲気、絶妙に調整された室温、ちょうどよく抑えられたBGM――すべてが、あまりに整いすぎている。
「これも…誰かの仕掛けなのかもしれないな」
そんな考えが胸に忍び込み、私はカップを見つめた。香り高いコーヒーの一口さえ、幸福へと誘う見えない仕掛けの一部に思えてしまったのだ。