勇み足は控えめに。
気が早い
世界的な話題となっていた新NY市長が先日就任し、さっそく各メディアから毀誉褒貶入り乱れた講評をされています。
今回の新NY市長に限らず、政治家が当選したり何らかのポジションへ就いた際に賛否両論が巻き起こるのは一般的な事象です。
ただ、率直に言って気が早すぎます。
だってまだ何もしていない段階なのですから。
必然的な事象
もちろん政治家の就任直後に様々な評価が吹き荒れるのは、人々が"結果"や"実績"ではなく"期待"や"懸念"を他者の評価材料にしている以上、必然的です。
特に政治は失敗が許容され難い分野であり、ヒューリスティックに基づいてリスクを事前に察知する必要があることから、人々は実際の成果ではなく認知的な予測を優先します。
そもそも民主主義の選挙自体、ある意味で”期待"に投票するようなものであり、そうした評価行動が続行されるのは自然なことでしょう。選挙戦やそれ以前の言動、公約、態度、支持基盤なども評価対象となっており、就任後の行動ではなくその前段階での"期待"や"懸念"が評価材料とされることも普通です。
さらに言えば、政治は"結果"だけでなく"方向性"も重要視されます。人事や演説や姿勢からどこへ向かっていくかのシグナルは就任直後から示されますので、そのベクトルに対して賛否が割れるのは当然のことです。
それでも政治家は結果責任
ただ、それでも政治家は本質的に結果責任で評価されるべきだと考えます。
就任直後の評価はどうしても"印象"や"予測"に偏りがちであり、それは極めて主観的な評価です。政治が公共に影響を与える分野である以上、評価は主観ではなく客観に基づいて行われるべきでしょう。
その点、"結果"や"実績"での評価は明確に客観的な基準を提供します。ある政治家がどのような思想や理念を語るかではなく、その差配によって社会が定量的にどう変化したかで評価するほうが公正です。
そういった定量的な値で客観的に評価すること、感情的な支持・不支持から距離を置いて政策の結果で判断することは現代の政治的分断を和らげる効果をもたらすことでしょう。客観的な評価は立場や思想の違う人同士でも議論の共通基盤となり得るためです。
評価の仕方
もちろん時期尚早な主観的評価を完全に排除することは現実的ではありません。市民が自由に意見を述べること自体は民主主義にとって当然の権利です。
よって二重構造的な理解が必要でしょう。期待や懸念の表明は起こるべくして起こるものであり、しかし結果に基づく客観的評価ではないとした理解です。
要するに、"結果"や"実績"での客観的評価と、"期待"や"懸念"による主観的評価は両方存在していても問題なく、但し絶対に混同すべきではない、そういった結論となります。
最終的に優先すべき評価は"客観的で定量的な成果"であり、政治家を結果責任で評価することは政治的分断を和らげて適切な政治環境の維持に資する態度です。
結言
極端な物言いとなりますが、党派性に振り切ってしまった人々は同じ言語を話していても共通認識を持てない状態となっています。
そういった政治的分断と対話の崩壊を回避するためには主観的な党派性の眼鏡を外して客観的な数値に基づいた評価を行うことが不可欠であり、そのためにも政治家は結果責任で評価したほうが良いと考える次第です。