何事かについて考えを巡らせて意見を発信するブログを思索型ブログと呼称してみます。
優れた諸賢や先達の文章と比べてしまうと、「自分が思索型ブログを書く意味はあるのだろうか」と迷う瞬間があるかもしれません。
そんな迷いに対して対処法を考えてみましょう。
思索型ブログが続かない2つの理由
思想・社会・政治・技術などを語る思索型ブログ・note・個人サイトはたくさんあるかと思います。
うちのブログも、ノイズはたくさんあるものの、まあ概ねそういったジャンルに該当するでしょう。
先日、この手のブログが続かないのは2つの理由があると見かけました。
ひとつは「アクセス数が少ない」こと。
まあそれは自然なことです。別に思索型ブログに関わらず、ブログ継続においてアクセス数は少ないよりも多い方がモチベーションには繋がるでしょう。
そもそも、思索型ブログ自体はアクセス数を稼げるようなジャンルではありませんが。
もうひとつは「書く意味を見失う」こと。
「誰にも読まれない不安ではなく、何のために書いているのか分からなくなる」ことで書けなくなるようです。
その理由は様々考えられるでしょう。
- 違う話題を書いているはずなのに結論のトーンが似てきてしまい、考えが深まったのではなく同じことを繰り返し述べているだけのような気がしてしまう。
- 本や論文、他人の意見や議論をたくさん学んだ結果、「自分固有の発見」や「オリジナリティ」が分からなくなり、発信することに疑念が生じる。
- 考察は”答え”を出すのではなく”視点”を提供する行為であり、「すでに読者は知っているのでは」「読者に新しい視点を提供できていないのでは」と疑問を抱く。
- 同じテーマや同じ結論を繰り返すことで執筆が作業になってしまい、"考察"ではなく"再生"になってしまう。
もちろんこれらは思索型ブログ以外でも生じるマンネリ感ではありますが、技術ブログなどであれば新技術や新開発などで変化が目に見えて分かるところ、思索型ブログには正解が無く進展や更新が成果として見えにくいことから変化に実感が伴わずマンネリ化しやすい可能性はあります。
対処法の検討
私自身はアクセス数を気にしませんし書く理由を見失う事態には陥っていませんが、対処法の検討をしてみましょう。
基本的には「正しさ」や「答え」を求めないことです。
「正しさ」や「答え」を見つけて発信する行為は、思索や考察というよりも啓蒙や布教に近い行為であり、そして人は絶対的な「正しさ」を見つけたと思い込んだ瞬間に思考を止めてしまいます。「それ以上もう考える必要はない」と無意識に判断してしまうからです。そんな正しい答えは未だ人類の誰一人辿り着けていませんので明確に誤認なのですが、思考が止まってしまうためそこから引き返すこともできません。
そういった袋小路やローカルミニマムを避けるためには、「正しさ」や「答え」の正反対、「予測」「途中経過」「保留」「分からないこと」を書けば良いでしょう。言い換えれば思考の余地を残しておくことが肝要です。そうすれば不足部分を埋めようと頭が動き続けますし、思考が深まっていくことが期待できます。
また、自身による自論への反論も効果的です。
もしも自分の考察が「正しさ」や「答え」に至ったと思ってしまったら、とにかく反論を考えて論理の穴を突くべきです。そうすれば思考が同じところに留まらず常に動き続けますし、反論の成功は思考の発展、反論の失敗は自論の強化となって損がありません。副産物として、他者の視点から反論を考えることで客観的な物事の見方ができるようになることもお得です。
「書く意味を見失う」原因で予測した事項は、どれも換言すれば思考停止の状態です。それを避けるためには簡単な話で、思考をし続ければいいだけとなります。
意見と人格の分離によるメリット
自論に反論することを苦手とする人もいらっしゃるでしょう。
しかし、これは訓練次第で乗り越えられます。
意見と人格は別物である、そう認識する練習をすれば簡単です。
意見と人格を適切に分離できていれば、新しい情報を意見に反映する場合にも自己否定への抵抗感から発生する認知的不協和を生じにくいので、思索の進歩が早くなります。
また副次的な効果ですが、議論においても勝ち負けではなく意見の発展を目標にできるため、建設的な議論が可能になります。
意見と人格を混同していると、「意見の否定を人格の否定と誤認して、他者からの批判を受け入れられなくなる」だけでなく、「人格の一貫性を保つために意見も一貫性を保とうとして、意見の更新や発展を拒む」こともあり、さらに酷い場合は「他者の意見を批判するのではなく、他者の人格を否定するような誹謗中傷をする」ことさえやりかねません。
意見は人格が生み出した生成物に過ぎず、思考を成熟させるためには次々と意見をアップデートしていくことが肝要です。
もっと言えば、変化しない思考は成長していないのと同義とすら言えます。
結言
もしも「自分はもう書く意味を失ったのではないか」と思ったのならば、それは思考が枯れたのではなく次の発展段階に到達したサインだと思いましょう。
手持ちの情報を使い切って思考が煮詰まり成熟した状態であり、そこに反論や新しい情報を取り入れれば一段上へと発展できる準備が整った状態に他なりません。
つまり書くことが無くなった時こそが思索型ブログにとってのチャンスであり、そこで筆を置いてしまうのは勿体ないです。