忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

民主主義における意思決定は科学がすべきか、大衆がすべきか

 

 愚かな大衆の意思決定を受け入れられるかが民主主義の分水嶺である以上、科学はどこまで語り、どこから沈黙すべきか。我々は愚かさを拒絶するべきか、愚かさを受容すべきか、或いは愚かさを変えていくか。

 

 そんな、専門知と民意の境界線をめぐる民主主義と人間観について、過去記事の発展形として、政治的な観点を主に思索していきます。

 

科学の価値中立性

 科学哲学では「科学の価値中立性」について意見が対立しています。

 基本的に科学は価値中立です。科学的な成果や法則それ自体には価値判断はなく、科学は自然現象を説明するための記述に過ぎません。例えば核分裂反応も、それ自体に善悪はないでしょう。価値中立が崩れるのは人間がその科学をどう技術として使うかの判断によります。

 しかし科学は絶対的な価値中立ではないとする意見にも理があります。研究テーマの選定や仮説検証の厳しさなど科学のプロセスでは必然的に人間の価値判断が混入する以上、絶対的な価値中立ではないとした考えは間違いではないでしょう。

 

 私は基本的に「科学は価値中立的であるべき」と考えていますが、それら論争を踏まえて「であるべき」と考える次第です。共産主義思想に反するからと遺伝学を否定したソビエトのような二の舞を避けるために、たとえ限界があるにせよ科学は自覚的に価値中立を目指したほうが科学の正当性や妥当性に資すると考えます。

 

民主主義の意思決定に対する専門家の重み

 科学は価値中立的であるべきと考える立場からすると、『科学者の政策提言』は非常に扱いが難しい課題です。科学者による政策提言は内容次第で非中立的な価値判断へ踏み込むことになります。

 もちろん前提として、政治も科学も高度に専門化・複雑化している以上、科学者の政策提言は不可欠でしょう。専門家の意見が無視される社会はどう考えても持続不可能です。

 しかし科学者の政策提言の重み付け次第では民主主義を毀損しかねないとも思います。主権者たる市民ではなく科学者の意見が過剰に絶対視されるようになっては民主主義とは呼べません

 

デモクラシーとテクノクラシー

 民主主義の意思決定に対して専門家はどのようにどこまで介在すべきかについて思索します。

 

 まず、科学者が語り提言すべきは本来「事実」のみだと考えます。

  • どれだけのリスクがあるか
  • どの程度の確率で何が起こるか
  • どの仮説が最もコンセンサスを取れているか

 これらは科学の領域に属する事実であり、科学者が周知提言すべき事柄です。

 

 対して、次のような「判断」は科学の領域ではなく、政治・倫理・市民の判断領域とすることが民主主義的な意思決定と言えます。

  • どれだけのリスクを許容するか
  • どの政策を選ぶべきか
  • どの価値を優先するか

 この区分を曖昧にすると科学が価値中立で無くなり、民主主義の根底が崩れかねません。

 

 もちろん科学者の職業倫理として、フランクレポートやシラード請願書などを出して原爆投下に反対した科学者のように、可能な限りリスクや問題を避けるべく提言することは必要です。

 しかしそれでも意思決定は主権者に委ねるべきであり、それが民主主義です。

 

 科学者がそれを超えて価値判断や意思決定にまで踏み込むと、科学者が民主的な意思決定プロセスを代行する危険が生まれます。

 そうすることで大衆が判断するよりも正しい政策を選べるようになると思われるかもしれません。

 しかしそれはもはや民主主義(デモクラシー)ではなく、専門家支配(テクノクラシー)と呼ばれる仕組みです。

 

 軍事における文民統制(シビリアンコントロール)の構図が理解の補助線として分かりやすいでしょう。

 軍隊の専門家が軍事や安全保障について最も詳しいからといって、意思決定を軍人が行うようになると暴走しかねません。軍隊が暴走して国家を乗っ取るケースは歴史的に見て普遍的な現象とすら言えます。

 このように少数の専門家による独裁的管理は必ず暴走して致命的な失敗に至ることから、職業的軍事組織は軍事アドバイスのみを行い、判断と決定は国民の代表がする文民統制を行うことが現代民主主義国家の基本です。

 

 軍事に限らず、他にも民主主義を損ねる少数の支配は「官僚による支配(ビューロクラシー)」や「富裕層による政治(プルトクラシー)」などがあります。

 科学においても同様です。

 科学者が政策判断を代行し始めると専門家支配(テクノクラシー)へと傾きます。それは民主主義の死に至る道です。

 民主主義を保つことに価値を見出すのであれば、科学者は「事実」の提示と「事実に基づく選択肢の提示」までに留め、意思決定は民衆に任せる必要があります。

 

 「科学者は沈黙しろ」と言っているのではなく、むしろ科学を語るべきです。

 しかし語るべきは事実と提言までであり、意思決定にまで足を踏み入れるべきではありません。

 科学者が語るべき境界線を守ることが科学の正当性と民主主義の両方を守るための最も重要な条件だと考えます。

 

二つの人間観

 私は民主主義に価値を見出しているため、民主主義を維持することを是と考えています。

 しかし、大衆によるポピュリズムよりはテクノクラートが意思決定を行ったほうがより良い未来へ辿り着けると考えて、民主主義よりもテクノクラシーに価値を感じる人もいるでしょう。無知な人々に決めさせるよりは専門家に従ったほうが良いと思うのは充分に自然な感覚だと思います。

 

 科学者が政策判断に踏み込むべきかどうか。

 デモクラシーとテクノクラシーのどちらを是とするか。

 この問いを突き詰めると、次の二つの人間観の対立に行き着きます。

 

 一つは、大衆は愚かであるとした人間観。

 大衆は感情的で、集団は非合理的である。

 専門家は合理的で信頼できる。

 民主主義は不完全で間違える仕組みであり、判断を間違えないように科学者は政策判断へ積極的に関与すべき。

 このような人間観を持つ人は、民主主義を必ずしも是とは考えず、むしろテクノクラシーが魅力的に映ります。

 

 もう一つは、人間は誰しも愚かであるとした人間観。

 愚かさは大衆だけではなくエリートにも等しく存在する。

 一部の人間に判断を集中させることは危険。

 権力は集中させず分散したほうがリスクヘッジとなる。

 このような人間観を持つ人は、民主主義を「間違えても修正できる」「不完全だからこそ必要」な制度だと考えて、少数への権力集中を警戒します。

 

 私は明確に後者です。

 自身がエリートではないのもありますが、技術者として「人は必ず間違える」ものだと認識していますので、間違いを前提として、制度や仕組みでリスクを分散したほうが長期的な安全性を担保できると考えます。

 なにより、少し辛辣な表現となりますが、「大衆は愚かである」の背景には『我々はそうではない、我々は愚かではない』としたエリート意識があり、それは少し傲慢ではないかと考える次第です。

 曲がりなりにも技術屋は専門家ではありますので、私たち専門家こそ戒めとして「我々も愚かであり間違えることがある」と理解しておいたほうが良いかと思います。

 専門家だってバイアスや利害から自由ではありませんし、科学哲学においても「科学者だって間違える」ことが前提です。

 

 それに権力は集中すると腐敗します。

 そもそもロック・マディソン・ロールズなどの政治思想家が語ってきたように、民主主義は「大衆が賢いから」ではなく「誰も完全には賢くないから」必要とされる制度であり、それを忘れてはテクノクラシー・優生思想・独裁の正当化まであっという間です。  

 

 つまり、科学も民主主義も「人間は誰しも愚かである」ことを前提に設計されています。

 私としてはこの命題が真だと思っていますので、だからこそ民主主義を擁護します。

 

結言

 以上の思索より、テクノクラシーを避けるため科学者は「事実」を政策提言で積極的に語るべきであり、しかし「価値判断」や「意思決定」は民主的プロセスに委ねるべきです。科学者は説明責任を果たし、しかし決定と結果の責任は社会が請け負うことが妥当でしょう。

 それが科学の信頼性と民主主義の正統性を同時に守るための最も安定した仕組みだと考えます。

 

 これは前述したように人間観の差異が影響しますので、絶対的な答えではありません。「大衆は愚か」と考える人と、「人間は愚か」と考える人は、なかなか相いれることはないのですから。

 ただ、私は「人間は愚か」だと考えるため、民主主義は科学を抑圧せず共存し提言を聞くべきであり、しかし科学は民主主義を代行すべきではないと考えます。