会ったこともない人を憎む、人間の心理について。
距離を超越した通信が可能になった現代だからこそ、留意が必要なこと。
個人的な考え方
インターネット上では、有名人や政治家、大富豪や専門家などに対して、一度も会ったり話したりしたことが無いのに憎んでいる人が散見されます。
私としては、判断しようがないと思っているため好悪の感想は保留することにしています。話したことがない人、ましてや会ったことがない人は、単純に判断が付きません。
なにせ伝聞の情報だけでは人格が掴めませんし、仄聞するだけではその情報が正しいかも判定できません。他者が意図的に良い噂や悪い噂を流している場合だってあります。そういった不確実な情報から評価するためには、自身の認知や願望を”投影”するか、ヒューリスティックに基づいて”記号化”して理解する他なく、それは一個人の人格に対して失礼にあたるのではないかと考えています。
要するにその個人を判断するだけの情報が足りないと思っているため、面識も無く関わりも薄い人に対して好悪の感情は持たないです。
とはいえ、これは私個人の嗜好です。
むしろ私の考え方は希薄で個人主義が過ぎるとも言えるでしょう。
会ったことのない人にも縁やつながりを感じて紐帯を構築できるのは、社会的動物である人間の素晴らしさです。正負はあれど見知らぬ他者に対しても好悪を抱けることこそ、人間の豊かさの一端なのかもしれません。
ただ、一応の注意事項として、「人は物理的・心理的に距離が遠いほど"好"よりも"悪"を感じやすい」ことは留意しておいたほうが良いかと思います。
会ったこともない人に対して、人は基本的に悪感情を抱きやすいものです。
距離があるほど攻撃性は増す
基本的に、人は他者を害することを好みません。
それは、種の存続に関わる本能的な抑止であったり、社会的な保身であったり、あるいは他者の痛みを自分の痛みとして感じる共感や生理的反応であったりと、複数の要因が重なっているためです。
しかし、この抑止が例外的に弱まる状況があります。
それは 「距離があるとき」 です。
物理的・心理的な距離が広がるほど、人は相手を“生身の人間”として認識しにくくなり、攻撃性が高まりやすくなります。
逆に、相手の表情が見えて、声が聞こえて、身体の反応が伝わるような近距離では、攻撃性は自然と抑制されます。目の前にいる"人間"を傷つけることは、脳にとって強い抵抗を伴うためです。
戦争の歴史はこの「拒絶反応」をいかに麻痺させ、兵隊から攻撃性を引き出すかの工夫の連続でもあります。
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敵の思考を歪めて理解するための投影
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相手を非人間化するための記号化やレッテル貼り
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距離を最大化するための武器の長射程化
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心理的負担を軽減するための攻撃動作の簡易化
これらはすべて、「相手を人として認識しない」ための仕組みです。
デーヴ・グロスマンが著書『戦争における「人殺し」の心理学』で南北戦争や第二次世界大戦の戦闘データを分析した結果から明らかにしたように、洗脳的な教育を受けない限り、たとえ戦場であっても多くの兵士は銃の引き金を引けません。弾をわざと外したり、頭上に撃って威嚇だけしたり、撃つふりだけをすることは珍しくなかったとされています。
それだけ他者を害することへの忌避感は強く脳に刻み込まれており、しかし物理的・心理的な距離がその枷を外します。
こうした状況では、脳は 「これは対人コミュニケーションではなく、ただの対象物への反応だ」と誤認しやすくなります。
その結果、ネット上では「憎悪」「嫌悪」「断定」が増幅されやすくなると言えるでしょう。
実際、ネットで罵言を吐き他者を憎んでいる人も、恐らく通常の生活ではそこまで過激な攻撃性を発露していないと思われます。生身の人間が相手であれば、攻撃性は抑制されて社会的な礼儀や共感を示すことでしょう。
そういった人の多くは性根のところで攻撃性が強いわけではなく、ネットには攻撃性を増幅させる効果があるため攻撃的になっているだけです。
会ったこともない人を憎んでしまう人も、憎悪の感情が人よりも強いわけではなく、基本的には単純に、距離が原因です。
結言
会ったこともないのに嫌う心理は、困ったことに人間の脳の“デフォルト設定”に近いものです。
特に有名人や政治家、大富豪や専門家などは、不満や怒りを“投影”しやすい“記号化”された存在であり、距離が遠いことも相まって攻撃性が発露されやすくなります。
個人的には、好悪の情はさておき、攻撃的な態度は望ましいとは思えません。
何かしら対策を立案したいところですが、とはいえ現実的な対策は、メタ認知を鍛えて、“投影”、“記号化”、“レッテル貼り”を避けて、 相手を人格ある人間として認識することくらいしかありません。
しかし、これが誰にでも簡単にできるわけではないのが、なんとも難しいところです。