忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

意見の一貫性と信頼性の神話

 

 現代社会のバグであり、解体すべき神話について。

 

一貫性=信頼性、という直感の正体

「この人は昔、こう言っていた。こんな人は信用できない」

「この人は昔、こう言っていたのに、今ではこう言っている。こんな人は信用できない」

 

 昔の意見や考え方を引っ張ってきて現在の人を評価する。

 特に、その人に一貫性があるかどうかを信頼の源泉にする

 これは昔からある手法ですし、情報化が進んで大量の情報が保管・検索できる現代では過去の情報を引っ張ってきやすいため、特によく見かけます。

 

 人間は「予測可能性」を信頼の基準にしがちです。

 一貫した意見・態度・価値観を持っている人は、先々も予測可能であり、裏切りや手のひら返しをしない期待ができます。そして相手の行動が読めるほど安心感が生じます。

 つまり、人の心は一貫性を持っている人を信頼するようにできています

 

 とはいえ、この直感には重大な欠陥があります。

 一貫性は誠実さの"証拠"ではなく、単に変化していない”事実"に過ぎないためです。

 新しい情報を学び経験を積むことで人は成熟していくものであり、意見が変わるのはむしろ健全な認知的プロセスです。意見が変わらないほうが頑迷固陋でアップデートを拒絶している可能性が高いでしょう。

 さらに言えば、たとえ内心では心変わりしていても一貫した意見を言い続けることは可能であり、一貫性があっても不誠実な人はいます。 

 

過去の発言を引っ張り出す評価は妥当ではない

 情報化社会における「過去の発言の永続的な可視化」は、昔よりも人物評価の基準を歪めていると私は考えます。

 

 まず、過去の発言は当時の文脈に依存しています。

 過去の社会状況、本人の立場、知識量や周囲の常識などを無視して「今の基準」で判定するのは適切ではありません。

 一貫性の称揚は人間の成長を否定することにも繋がります。

 昔と言っていることが違ったとしても、それは良い成長の可能性だってあるでしょう。

 さらに言えば、一貫性の強制は”誤りを認めない文化”へと地続きです。たとえ過去の発言が誤っていたとしてもそれを修正できなくなるためです。

 

より妥当な評価基準

 つまるところ、一貫性と信頼性の相関は認知バイアスに過ぎず、変わらないことを美徳とする文化は社会に歪みを生じる元凶だと私は考えます。

 もちろん信頼性は現在単独では評価しようがなく、過去との比較が必須です。

 ただ、比較の仕方は変えることができるでしょう。

 

 人の信頼性を評価する際は点ではなく線で見るべきです。

 「過去の意見」が変化なく「今の意見」と同じであると勝手に期待しないこと。

 「過去の意見」と「今の意見」を離散的に比較するのではなく、どのような変遷を持って変化したか、或いは変化していないかを連続的に分析すること。

 もっと簡単に言えば、「一貫性」ではなく「変化の理由の透明性」が信頼性の基準であったほうが良いと考えます。

 新しい情報が出たから。

 以前の前提が間違えていたから。

 自分が無知であったから。

 自分の価値観が成熟したから。

 意見が変わったとしても、こうした理由を説明できる人はむしろ信頼に値するでしょう。

 

結言

 「一貫性のある人は信頼できる」と感じるのは認知バイアスであり、一種の神話です。

 その神話に基づいて一貫性を信頼の基準とする社会は、厳しい物言いとはなりますが、人間の成長・学習・変化を“裏切り”として扱ってしまう社会と表裏一体ですらあります。

 特に現代の情報社会では過去の発言を引っ張り出してきやすくなっていますので、この一貫性と信頼性の誤認は早めに注意喚起が為されたほうが良いと考えています。