忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

信仰心の違い

 

 縁と言えばいいのか、しがらみと言えばいいのか、まあ色々ありまして、宗教的な人々や集まりに関わることのある人生を送っております。

 先日もおよそ二年ぶりに仏教系の集会的なものへ参加する機会がありました。

 独学で宗教を学んでいる程度には好奇心と興味本位が勝っているのでそういった場に行くこと自体はいいのですが、なかなかに同意や共感が難しいとは感じます。根底のところに信仰心の違いがあるため、なんとも精神的な和解が難しいものです。

 話し合いではどうあってもすり合わせができない確信があり、率直に言ってまったく共感できておらず、宗教戦争が世界中で起こるのもむべなるかなと暗澹たる気持ちになります。

 

信仰の概念

 信仰とは、何を前提として受け入れるか、その前提を使って人生や事象にどう意味付けを行うか、その意味によってどう不安に対処し行動を行いコミュニティと連帯するか、それら"信頼(faith)"と"信念(belief)"を支える根底であり、言わば世界を理解するための思考様式の一種と言えます。

 全ての人は何かしらの信仰をフィルターとして世界を認知していると断定してもいいでしょう。

 これを上手いこと説明するのは少しややこしいのですが、「世界は理解できる」「他人は意図を持っている」「自分の感覚は信用できる」「因果関係は存在する」「善悪はある」といった世界の基本設定に対する前提こそが信仰であり、信仰が無ければ世界を認識することはできず、信仰を持っていない人は存在しません。

 

 一度、宗教から意識を離して単独で信仰を考えてみましょう。

 例えば川辺に行って石ころを拾い、「これは石ころである」と認識する行為も信仰が関わっています

 まず、その認識には「世界には安定した物体が存在している」「その物体は時間を通じて同一性を保っている」とした前提を信仰していなければなりません。極端な話、「この世は空であり安定した物体など存在しない」とした信仰もありますので、安定した物体の存在を信じること自体も信仰です。

 次に、「石というカテゴリーが現実にある」とした前提も信仰です。拾ったそれは、本当に石でしょうか。砂かもしれませんし、岩かもしれません。それを石と分類することが妥当だと信じているから石と呼べるのであり、それも信仰となります。もっと言えば「石」という言葉そのものすら、それが他者に誤解無く伝わると信じている以上、言語も信仰です。

 さらに、「自分の知覚は信頼できる」とした前提も信仰となります。自らの視覚や触覚には問題が無いとした信頼がそこにはあるのですから。

 

宗教的信仰

 以上のように、信仰とは事象に「前提」と「意味」を与える思考の土台です。

 その中でも、宗教的信仰はその「前提」と「意味」を外部に求めることが特徴だと考えます。宗教的信仰では"神"や"因果"といった『外部の超越的概念』が前提として与えられるためです。

 

 時々、宗教的信仰と科学が対立的、もしくは同一的に扱われることがあるかと思いますが、信仰の概念を捉えていれば理解が容易になるでしょう。

 科学も信仰心を持って接すれば宗教的信仰と化します

 「科学は絶対である」「科学で説明できないものは存在しない」「専門家が言うならば正しい」と科学的方法への絶対的な信頼を持ったり、「科学的で合理的であることが善であり、それ以外は悪である」と科学の意味付けを価値化したりと、科学の本質を逸れて科学に対する"姿勢"が宗教化することは往々にして生じるものです。

 

 信仰についてもう少し分かりやすい例を出すと、「この世に神は存在しない」と考える無神論者は、「神が存在しない世界」という前提を持っていると言えるでしょう。それは宗教的信仰とは若干異なるものですが、やはり信仰の一形態です。

 

私の信仰

 私の信仰は宗教的信仰と非常に相性が悪いと言いますか、あまり反りが合いません。

 私は物事の理解を外部ではなく内部に求めるべきだと考えています。前提も、意味も、救いですらも、自らが構築すべきものだと信じる次第です。

 

 例として、

「善因楽果、因果応報、善行を積んで功徳を積むことで人生が良くなる」

と仏教系の人に言われても、

「いや、それは公平世界仮説の一種であり、釈迦の説く因果は道徳的整合性を保証していないからこそ"諸行無常"の"一切皆苦"であって、善因が楽果にならずともそれを受け入れるのが滅諦であり、外部の超越的存在が"宇宙的な秩序"を構築していると勝手に考えるのはどうなのか、善因楽果の考え方自体がウパニシャッドに遡ってしまってはいないか」

と考えます。

 まあ、仏教自体が後から様々に解釈・編纂されたものであり、別に四法印だって原典通りかと言えばそうでも限らない以上、因果がどう解釈されたとしても問題ではないのですが。

 要するに仏教に関して私は原作厨で、自灯明・法灯明を是とし、内部で読み解けばいいので外部の超越的存在なんて不要だと思っている自己完結型の信仰を持っているため、因果を司るような超越的存在は解釈違いなだけです。「釈迦はそんなこと言ってない」と勝手に思っています。

 

宗教的信仰が外部に求める理由

 宗教的信仰のように「前提」と「意味」を外部に求める最大の利点は、共有と共感にあると考えます。

 異なる信仰は根本的にすれ違うものであり、同じ信仰を持ち、同じナラティブを共有しなければ組織化はできません。宗教的信仰がほぼ例外なく"神"や"因果"などの超越的存在を外部に置くのはそういった理由だと言えるでしょう。外部に取り出して可視化されてこそ、誰もが共有して共感できる信仰となります。

 

 私が内部に「前提」と「意味」を求めるのは、外部の権威に依存してしまうと自分の理解や選択の責任を手放してしまう危険を感じるからです。意味を自分で構築する営みは、時に孤独で、時に不安定で、他者と共有できない信仰ですが、それでも私はその不安定さを引き受けたいと思っています。

 そのような信仰を持っているため、外部に権威を求める宗教的信仰とはどうにも相性が合いません。

 

結言

 道具主義的に、それによってより良く生きられるならば別になんでも構わないとは思っているので他者の信仰を否定するつもりも一切ないのですが、他者の信仰、外部的な意味付けを理解しようとすればするほど共感が難しくなっていくので困ったものです。

 

 

余談

 私が宗教的な事柄にも気軽に顔を突っ込めるのは教化されない自信があるからなのですが、それは「自分は賢いから大丈夫、騙されない」と思っているわけではなくすでに強い信仰心を持っていると自覚的に確信しているからなのが厄介なところだったりします。

 私は私の思う私の哲学に従いたいと信仰している、疑う余地ない狂信者です。宗教的狂信者(religious fanatic)でないのはある種の救いですが、fanaticであることは間違いありません。