忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

デモに関する批判的な考察

 

 最初から言い訳をしますが、批判的であることと否定的であることは別です。

 

政治的デモの「負の側面」

 政治的デモについて批判的に語ることは、正直なところ非常にセンシティブです。デモは「市民の声」「民主主義の象徴」「弱者が取り得る手段」としてある意味で神聖視されており、デモに対して否定的な論点を持ち出すだけでも権力者の代弁者であるかのように誤解されることすらあります。

 もちろん私はデモそのものを否定する考えを持っていません。むしろデモは民主主義における手続き的正義の一部であり、社会が健全であるために不可欠な制度だと考えます。

 しかしだからこそ、批判されない権力は腐敗するように、批判を許さないデモも腐敗を免れないと考えます。一歩踏み込んでデモの功罪や負の側面についても冷静に検討することが必要ではないでしょうか。

 

デモの機能低下

 現代におけるデモは、意味や位置付けはともかく機能としては過去と比較して大きく変わったと見ることが妥当です。

 かつてのデモは人々の意思表示や情報発信機能として明確な力を持っていました。しかしそれは個人が社会に向けて声を発信する手段が限られていた時代の話であり、現代は個人がSNSなどを通じて瞬時に世界中へ情報を発信することができます。その発信力は物理的な集会の規模を容易に上回っていることは間違いありません。

 結果として、デモは「意見を広げるための手段」ではなく、「象徴的な儀式」へと相対的に変貌してきたと言えるでしょう。

 

 それ自体は大きな問題ではありませんが、”儀式的”な行動はしばしばエコーチェンバーを生む点について留意する必要があります。

 SNSのエコーチェンバーについてはアルゴリズムの偏りやフィルターバブルによる同質性の強化が盛んに批判されていますが、現実問題としてデモはSNS以上に同質性を強化し得ます

 デモが公共空間で行われているからといって開放的であるとは限りません。参加する行為自体がハードルやフィルターとして機能しますし、そもそもデモは意見や価値観の近い人だけが集まるものです。身体的な共同経験は確信と連帯を強化して部族化を促し、敵/味方の二分法を生じやすくもなります。

 これらはまさにエコーチェンバーの典型的なパターンとすら言ってよいでしょう。

 

 もちろん全てのデモがエコーチェンバーであるわけではありません。

 ただ、デモの内部構造は外部からは見えにくいことも事実です。SNSの投稿はログとして残りますが、デモの内部でどのような議論が行われてどうやって多様性が確保されているかは外部から判断が付きません。時にはSNSの比ではない内部の同質性や閉鎖性を持っていることすらあり得ます。

 そういった観点を無視し、デモを無謬な「公共性の象徴」として神聖視する態度を持つことは認知バイアスに他なりません。

 

結言

 繰り返しとなりますが、デモ自体を否定するわけではありませんし、デモが常にエコーチェンバーを生むと主張するわけでもありません。

 多様な背景の人々が参加して対話の場となるよう設計されたデモだってありますし、主張ではなく対話と議論を主としたデモもあります。そういったデモは民主主義に不可欠です。

 

 しかしデモを「不可侵の正義」「批判すべきでない聖域」として扱うことはかえって民主主義の成熟を妨げると考えます。

 デモには意味があり、民主主義において必要で、しかし扱いを誤れば社会の分断や党派性の硬直を助長する危険があるものです。だからこそデモを「民主主義の道具」として冷静に評価し、その限界やリスクも含めて議論できる言論空間を持つことこそが民主主義に役立つと考えます。

 もっと率直に言えば、デモをする自由は必要で、同時にデモを批判する主張も自由にできることこそが民主主義にとって望ましい状態です。