忘れん坊の外部記憶域

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批判における倫理の考察:理想との比較はなぜ非倫理的になり得るのか

 

 合理的な理由から「代案無き批判は許容される場合がある」と結論した先日の記事に対して、今度は道徳・倫理の観点から批判の是非を考察してみます。

 

批判の形式

 テレビやSNS、職場や家庭など、大小問わず社会には様々な批判が溢れており、私たちは日々誰かが何かに不満を述べる光景を目の当たりにすることでしょう。

 そのうちの一形態として、「理想との比較」による批判があります。

 これはAs-Is/To-Beやギャップ分析と呼ばれるスタイルで、批判者が想定する「本来あるべき姿」としてのイデアルに対して現実のリアリティがどうなっているかを比較し、その差分を根拠として批判を行う形式です。

 

 個人的にはそもそもこのフレームワーク自体に若干批判的ではありますが。

 例えば「交通事故の多さ」に対する批判として、「交通事故はゼロであることが理想的である」ことは誰もが同意できるでしょうが、その理想と比較して「交通事故がゼロでないから問題だ」と批判するのは非現実的だと考えます。その理想を実現するためにはありとあらゆる交通システムを古代の馬車以前にまで戻さなければ実現しようがありません。

 

 批判はなにもこのような「あるべき姿」「理想像」と比較しなくても可能です。

 交通事故の多さであれば、道路の設計や交差点の視認性など原因や因果の構造を元に問題を提起してもよいですし、取り締まりや罰則の効力など制度や運用の側面から批判することもあり得ます。同規模の都市・都道府県・国家と比べた事故率など別の現実と比較することもできますし、医療費や保険料などによる社会的コストとの比較から効率性の観点で批判することも可能です。

 いずれにせよ、理想との比較をせずとも、現実との比較で批判は充分に成立します

 

理想との批判における非倫理性

 「理想との比較」は「現実との比較」に比べて明らかに非現実的ですが、同時に非倫理的ですらあると考えます

 先に挙げた交通事故の例一つ取っても、本気で交通事故をゼロにするためには社会システムの著しい縮小とそれに伴う極めて残酷な死傷者の発生が起こるわけで、そのように無理なことを求めて他者を詰めるのは道徳と真逆の行為です。

 

 たしかに理想的な状態は道徳的でもあるでしょう。

 しかしその基準を掲げる批判者は暗黙に「自分はその理想を理解して支持している道徳的な人物だ」と主張していることになります。

 そして現実は必ず理想に届かないため、批判者は自動的に”道徳的に優位な位置を獲得します

 つまり理想との比較は批判者が意図していようがいまいがMoral grandstanding(道徳的優位の演出)となる行為です。批判者は安全地帯から責任を負うことなく批判するだけで美徳シグナリングが可能となり、それは厭味な言い方ですがマウント行為以外の何物でもありません。

 

「理想は方向性を示すために必要である」

「理想があるから現実の改善点が見える」

などなど、理想との比較を擁護することも論理的には可能でしょう。

 しかしそれであれば比較対象が「道徳的な理想」である必要はなく、ただ「もっとこうすべきだ」とだけ言えばいいのであって、理想像を持ち出して現実を殴る必要はありません。

 非現実的な理想を持ち出して批判する行為はどう擁護しようとも「批判者を道徳的に上位へ置く構図」を回避できず、批判行為がその先に必要とする論理に基づいた議論を遠ざけて、ただの道徳・倫理バトルへと批判を貶めてしまいます。

 

 もっと率直に言ってしまえば、理想との比較による批判は社会的・論理的には必要ですが、道徳的・倫理的には課題だと考えています

 ただ不平不満を漏らして愚痴を言うだけならばまだしも、批判は他者を責める行為であり、他者を責めるからには自らもその暴力性の責を担うべきです。せめて実現可能性を提示して責任の一端を引き受けるべきでしょう。

 それを回避した上で自らを道徳的に上位へ置こうとするのは無責任であり、少なくとも道徳的・倫理的ではありません。

 

結言

 繰り返しとなりますが、不平不満や愚痴自体は問題の可視化となるシグナルですので抑圧する必要はありません。社会・政治・経済などに対して人々は無責任に批判しても問題ないでしょう。

 ただ、それは社会的・論理的に必要なものではありますが、少なくとも倫理や道徳に属するかは議論の余地があると考えます。

 批判者はどこまで責任を負い誠実に行われるべきか。

 そして構造的に道徳マウントとなりがちであることをどう回避すべきか。

 批判の倫理については社会における必要性とは別軸での考察が必要だと考える次第です。