忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

批判と銘打たれた不平不満や愚痴の必要性について

 

 「批判」についてまとめた記事をいくつか書いてみましたが、最後の考察として、個人における批判の必要性について検討してみます。

 

 

「社会」「倫理」「個人」のレイヤー

 これまでの二つの記事では、批判行為を「社会的機能」と「倫理的側面」から整理してきました。

 まず、批判には「問題を提起するための社会的機能」があります。それこそ社会問題のように当事者が制度を変える権限を持たない事柄では人々の声が制度改善の端緒となるため、問題を可視化するだけの無責任な批判がむしろ必要です。

 しかし、批判が社会的に必要であることと倫理的に妥当であることは別問題です。特に「理想との比較」による無責任な批判は、現実の因果構造を踏まえずに非現実的な基準を持ち出すことで、他者に過剰な負担を強いる構造を持ちます。

 さらに、理想を掲げる批判者は暗黙に「自分は理想を理解し支持する道徳的に優れた存在だ」と主張することになり、結果として道徳的優位の演出(Moral grandstanding)を避けられません。そのため、理想論的で無責任な批判は倫理的に問題があると考えます。

つまり、無責任な批判は「社会」にとっては必要であり、「倫理」にとっては慎重な扱いを要する行為です。

 

 では、「個人」にとってはどうなのか

 ここからは、無責任な批判を行う個人の心理と、その立ち位置について考察していきます。

 

煩悩と執着

 人によってはとても厳しい辛辣な物言いになるかと思いますが、少し赤裸々に語っていきましょう。

 

 社会や世間に対する無責任な批判とは、批判と銘打たれているものの言ってしまえば不平不満や愚痴です。「ああすればいいのに」「こうなればいいのに」「それは良くない」「なぜこうしないんだろう」「これが嫌だ」「この人は合わない」といった個人の見解や心情の表出にすぎません。

 もちろん個人の見解や心情を吐露することは自由です。私たちには言論の自由と思想信条の自由があります。

 しかし本質的に見れば、心の苦しみは社会や世間といった外界にあるのではなく常に自らの心の反応、言わば煩悩や執着から生み出されるものです。気に入らない人や納得いかない事象が直接苦しみを生むのではなく、それをどう受け取るかという心の働きこそが苦しみの根本的な発生源と言えます。

 これは別に宗教や概念的な意味ではなく、ただの明らかな事実です。ある人物や出来事を見て、万人が同じ苦しみを感じるわけではありません。是とする人もいれば非とする人もいます。外界ではなく個々人の心に違いがあるからこそ是と非の差異が生じます

 

 よって、どれだけ外界に問題があろうとも、外界に対して不平不満を漏らす行為は必然的に「他責」となりますどれだけ外界に問題があろうともです。

 外界が持つ責任はその個人や事象に対する責任だけであり、個人の見解や心情に対しては責任を持ちません。それは個人の心の問題であり、その個人の責任となります。

 例えば残酷な犯罪行為のニュースがあったとして、その犯人は被害者に対する罪の責任を負いますが、そのニュースを見て気分を害したり傷ついたりした人に対しては責任を持たず、個々人の気分や心情はそれぞれ当人だけが責任を負います。

 例えばある政治家が汚職事件を起こしたとして、国家国民へ与えた損失に対してその政治家は責任を負いますが、人々の怒りや憤りに対する責任は持たず、その心情を処理するのは個々人の責任です。

 よって本質的に怒り・不満・苛立ちは自分の心の中で観察して自責の範囲で昇華すべきものであり、そうせずに憤懣を不平不満の形で他者や世間にぶつけることは「他責」に他なりません。

 

個人の道徳と煩悩の"慢"

 もちろん人にはそれぞれ器量があり、全ての心情を自己責任で処理できるわけもなく、時には他責で処理することも必要です。

 ただしそれは心の成熟を妨げる行為であり、言わば"怠慢"であることは留意しておく必要があります。

 また、不平不満はしばしば自我を投影します。

 「こうあるべき」とした自我の価値観。

 「自分は正しい」という自己正当化。

 「他者は間違えている」とした自尊心。

 これは他人を見くびって驕り高ぶる"自慢"や"傲慢”の心を育てます。

 つまるところ、歯に衣着せぬ表現とはなりますが、不平不満は慢心を招き自らを毀損する行為です。絶対にすべきではない避けるべき行いとまでは言わないものの、それに囚われないよう適度に距離を置き、必要以上とならないよう気を付けなければならない危うい行為だと認知する必要があると私は考えます。

 

結言

 無責任な批判、不平不満や愚痴による問題提起は「社会」にとって必要であり、「倫理」にとっては慎重な扱いを要する行為であり、そして「個人」にとっては必要ではあるものの同時に不要でもあります。

 すなわち、批判とは外界を変えるための行為であると同時に、自分の心を映し出す鏡です。だからこそ、個人の道徳を育むためには程々に抑制することが妥当かと考えます。