忘れん坊の外部記憶域

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資本主義批判はなぜ“弱いまま”繰り返されるのか

 

 資本主義を打ち倒したいのであれば、もっと強固な理論武装をすべきだろう。

 

資本主義批判への批判

 何らかの社会的な問題が起きる度、「資本主義が問題だ」とした言説が繰り返されるのをよく見かけます。気候変動、差別、格差、健康、経済、どんな問題であっても最終的には資本主義批判へと収束していく構造は、もはやある意味でお馴染みの光景と言ってもいいでしょう。

 たしかに資本主義批判は「社会的に強い」言説です。資本主義は完全無欠の仕組みではなく、むしろ多様な脆弱性を抱えている以上、その批判にも一定の合理性があります。現状への不満を表明するのであれば現状の根幹システムを批判することが合理的であり、それも資本主義批判が「社会的に強い」理由です。

 とはいえ、論理的に強固かと言えばそうでもなく、むしろ論理的には”弱いまま”繰り返されている点に課題があると私は考えます。

 

因果関係の未証明

 資本主義批判の多くは「この問題は資本主義が原因だ」とした主張から始まります。

 もちろん公理として「資本主義が問題を引き起こしている」と主張するのは批判者の自由ではありますが、実際には論理的な飛躍があることは無視できません。

 資本主義批判でメジャーなところをいくつか挙げてみても、『経済格差』は封建制や社会主義と比べればむしろ小さく流動的で縮小可能ですし、環境破壊は資源消費最小化のインセンティブが働かない制度のほうが深刻です。アラル海消滅のような20世紀最大の環境破壊をやってしまったのは非資本主義国家であることは留意すべきでしょう。

 他にも色々とありますが、つまり「資本主義体制下で起きている社会問題」=「資本主義が原因」と考えるのは短絡的過ぎますし、ほぼ全ての場合で誤った因果関係の推論となります。本来ならば因果関係の特定には比較と反証が不可欠であり論理を飛躍すべきではありませんし、制度を分析して批判するのではなく”資本主義とは悪い制度だ”とした公理としての物語を持ち出すべきではありません。

 

代替案の不存在と副作用の不提示

 代替案が極端に抽象的なことも資本主義批判が論理的に弱い理由の一つと言えます。

 多くの社会主義国家が社会主義を捨て去ってしまい錦の御旗が無くなってしまったのは大変だと思いますが、「資本主義にはこのような問題があるから"こうすべきだ"」を具体的に提示しなければ、どれだけ理念が美しかろうとも批判は支持を得られません。

 

 また、改善案や修正案の副作用が語られないことも説得力を損ねています。善意の政策が悪い結果を生むことは珍しくありません。それが善意であることとは別に、引き起こし得る悪い結果の想定とそれに対する対処までを含めて主張しなければ他者を説得できないでしょう。

 極端な例示として、「資本主義は欲望を促進する仕組みであり問題だ、欲望を抑圧して資源や環境に配慮しよう」とした資本主義批判があったとします。この場合、他者を抑圧することが正当化可能になり、欲望を抑圧する人が権力者となって監視や処罰がエスカレートし、欲望の抑圧が独裁的権力の暴走を生むことは多くの社会主義国家や宗教国家が証明してきました。

 資本主義の欲望を批判するのであれば、そのような悪い結果をも想定したうえで、そうならないような仕組みを合わせて提案すべきでしょう。

 

道徳に基づいた批判の不誠実さ

 ここまではロジックの話でしたが、ここからは善悪の話です。

 資本主義批判はしばしば道徳的な語彙で語られます。

 正義と不正義。

 公正と差別。

 平等と搾取。

 人間性や人権。

 道徳的な語彙は非常に強力です。それを批判できる人はなかなかいません。

 しかし制度の議論とは本来的に別の話です。道徳的な語彙を用いると、制度的な反論として上述したような「因果・代替案・副作用」が提示されたとしても、「あなたは不正義や不公平を擁護するのか」「こちらは平等で公正で善を志向している」と、合理的論理ではなく道徳的批難に話をすり替えることができてしまいます。

 これは議論において非常に不誠実ですし、厳しい言い方ですが詐術です。制度を批判するのであれば制度の論理に対して批判を行うべきであり、善悪を謳うべきではありません。

 

批判を仕事にすることの無責任性

 個人がただ資本主義を批判するだけであれば特に問題はありません。それは個人の思想信条の自由ですし、社会的な影響もさほど大きくはないでしょう。

 問題は批判を仕事にする人の存在です。

 彼らの仕事は「問題が存在すること」を前提としています。問題が解決されれば収入を維持できず路頭に迷う可能性もある以上、必然的に批判を生業とする人は問題の完全な解決に対するインセンティブが失われます。

 結果として、問題を解決することよりも批判を維持できるよう問題の持続にすら着手しかねません。これは個人の悪意といった話ではなく、構造的な問題です。

 ある種の合成の誤謬として、批判を仕事とする人々にとっては合理的なその選択は、社会全体としては問題を解決しにくくなるマイナスのエネルギーとなる以上、あまり望ましい結果にはならないでしょう。

 

結言

 つまるところ、安易な資本主義批判は構造的な問題があると考えます。

 論理の飛躍と代替案の不在による批判の形式化、制度ではなく道徳的な語彙へのすり替え、批判者のインセンティブ設計の不適切さなどにより批判は”弱いまま”繰り返されるばかりです。それでは社会はなかなか前には進めず分断だけが深まります。

 もちろん私は資本主義を絶対的なものとして擁護したいわけではなく、むしろ多数の弱みを持った脆弱なシステムだと考えます。

 しかしそれでも他よりは今のところマシであり、問題はそれを克服して改善していけばよく、そのためには因果関係を明確にして原因を分析して対策となる代替案の提示が必要です。

 そうした手順を踏まない批判それ自体が目的化した批判を私は危惧しています。