「自由でありたい」
「ありのままの自分でありたい」
このような言説はよく耳にするかと思います。
SNS、自己啓発、或いはビジネスのキャリア論などでもこうした表現は美しいスローガンとして扱われています。
ただ、この種の言説には「自由」ではなく「力」への欲求を取り違えている場合があることに気を付ける必要があります。それを勘違いしていると、いつまで経っても自由にはなれません。
昨日、「オピニオン記事は攻撃的になりがちだから気を付けましょう」と主張する記事を書いた直後とは思えない程度には攻撃的な表現を用いたオピニオンを書きます。
刺さる人には少し強めに刺さりかねないことへ言及するので、ご注意ください。
表層の裏側にあるもの
「自由」とは美しい言葉であり、善に属する概念です。先進的であり、清浄であり、人権や理想と紐づいた奇麗な言葉であり、 そのために「自由でありたい」とした願望はとても美しく思えることでしょう。
ただ、自由が不足している、不自由である、そうした認識は誤解であり、人は本質的に自由です。
反りの合わない家庭や組織を捨てて立ち去ることも、気に入らない人を殴り傷つけることも、社会的・文化的規範に従わないことも、人は選ぶことができます。法に違反することも、他者の期待を裏切ることも、文明を捨てて孤島で一人暮らすことも、人は選ぶことができます。
それを"選ばない"のはその結果として請け負わなければならない責任を背負いきれないためです。自由とは本質的に過酷であり、大抵の人はその結果と責任を負い切れません。だからこそ人は安全とのトレードオフとして、”選べない”のではなく”選ばない”結果としての不自由を甘受しています。
つまり、自由は元々持っており、それを思うがままに行使するだけの力が不足しているだけであり、「自由でありたい」と考える人が本質的に欲しているのは”自由”ではなく”力”です。
充分な財力・暴力・権力・体力・精神力などを保有していれば結果としての責任を負える、あるいはその責任を無視できるため、"自由"に振る舞うことができます。
そうした「我を押し通すための力への欲求」はあまりにも露骨で露悪的なため、「自由」という美しい言葉でラッピングしているに過ぎません。
「ありのままの自分でありたい」も同じです。"ありのままの自分でいる自由"は元々誰しも持っています。
しかし"ありのままの自分を他者に受け入れさせる力”が不足しているため、その自由を行使できていません。それを直接的に表現するのは座りが悪いため、歪曲表現として「自由」が用いられています。
他者・家庭・職場・地域・国家などの外的環境によって不自由であり、他者からの干渉や支配から距離を取りたいと思っている人も本質的には同じです。
こうした願望は一見すると力を求めていないように見えますが、実際には経済的・心理的自立・移動能力・法的知識・社会的ネットワークなど、環境から離れるための力を求めています。
逃避は非暴力的ですが非力ではできません。
防衛的な自由への逃走もまた「制約から離れるための力」を求めている点で攻撃的な自由への願望と同じ構造を持っています。
自由を得るための力の限界
力を求めることが悪い、などと言いたいわけではありません。虚飾を取り払っただけです。力を求めること自体は自然なことですし、それが必要な場面はあります。
ただ、力による自由を求めたとて完全な自由は永遠に手に入らないことが問題です。
どれだけ力を手に入れても世界の全てを思い通りにすることは不可能でしょう。どんな財力を得ても寿命は有限ですし、無限の権力を得ても他者の心は完全に支配できず、絶対的な暴力や影響力をもってしても自然や文化は制御しきれません。
何らかの力で世界を捻じ伏せようとする限り”自由のように見える不自由”に陥り、不足による飢餓感は永遠に続くこととなります。
力に依存しない自由
では、どうすれば真に自由を得られるか。
これは仏教で言うところの「五蘊盛苦」という概念が役に立ちます。
私のような凡夫が説明するのは烏滸がましいので詳しくはお坊さんの説法を聞いてもらう必要がありますが、大雑把にまとめてしまえば「苦しみは外部ではなく、肉体・感覚・イメージ・衝動・意識など自らの内部の反応によって生じる」とした概念です。
「不自由だ」「ありのままの自分で過ごせていない」と認識することによって生じている苦しみは外部ではなく内部に根源があります。それを苦しいと思うから苦しいのであり、その苦しみを"選んでいる"のは自分自身の脳であり、我執です。
つまり、自由とは外部を環境を変える力ではなく内部の執着を超える悟性に依ります。
とはいえ、これは「力が無くてもいい」とした意味ではありません。
「力が不足していることによる不自由」は厳然として実在する事象であり、それをただ受け入れるのは「悟性」ではなく「諦め」です。
内部の執着を超える悟性とは、環境を変える力を持ち、しかしその力に囚われず、その行使の是非を自らが選べる状態を指します。
雑ですが、企業人を例にしましょう。
ブラック労働で苦しんでいて、しかし転職するだけの力が無いのであれば、それを受け入れるのは「諦め」です。
その企業で自由気ままに振る舞えるよう力を欲するのは「執着」です。
転職や自由に振る舞えるだけの力を持ち、しかしその力の行使を選べる状態こそが囚われていない「真に自由な状態」と言えます。
結言
力に依存した自由は、常に不足し続けます。
対して悟性による自由は外部条件に左右されません。
だからこそ、真の自由とは「力に依存しない自由」だと私は考えます。
それは力の否定ではなく行使の自由であり、知性もある種の力ではありますので。
なにはともあれ、「自由でありたい」「ありのままの自分でありたい」と思う人は、力を求めつつ、しかしそれに囚われない理性をも学ぶことが適切かと考えます。