忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

戦後平和主義の後退と”フェアトレード”の精神

 

 率直な話、戦後平和主義は現代の若者からあまり支持を得られていません。

 それに関して、別の分野ですが"外部不経済"や”フェアトレード"と同軸にある倫理が影響しているのではないかと考えるため、少し理屈を纏めてみましょう。

 

対比とそれぞれの理論

 まずは、積極的平和主義に属する現代的な安全保障理論と消極的平和主義に属する戦後平和主義の比較から始めましょう。差異を示すために言葉の定義や厳密性を説明するとややこしくなりますので、いくつかのパターンにおける典型的な理論の対比で浮かび上がらせます。

 

【関与の是非】において、

  • 現代的な安全保障理論:資源・食料・海上輸送路の安全は他国の安定に依存しており、他国の戦争は無関係ではなく、国際秩序の崩壊は日本に直撃すると考えます。
  • 戦後平和主義:軍事的関与は紛争拡大リスクや巻き込まれリスクがあり、不安定だからこそ軍事的関与は危険で避けるべきだと考えます。

【国際秩序】について、

  • 現代的な安全保障理論:秩序の維持には一定の負担が必要、軍事・外交・経済制裁など多面的な関与が不可欠であり、日本は”タダ乗り”すべきではない。
  • 戦後平和主義:非軍事的関与こそ日本の強みであり、PKOやODAなどで秩序に貢献すべきであり、軍事以外の方法で秩序を支えるべき。

【他国の犠牲】

  • 現代的な安全保障理論:戦後日本は国際秩序の維持を他国に依存してきており他国の犠牲の上に平和を築いてきたが、それは限界である。
  • 戦後平和主義:犠牲の外部化ではなく非軍事的国際主義であり、軍事力を持たないこと自体が国際的なメッセージである。

【日本の役割】

  • 現代的な安全保障理論:日本は国際秩序の受益者であり、普通の国の責任として秩序維持へ積極的に関与すべき。
  • 戦後平和主義:日本は軍事大国ではないからこそ例外性に価値があり、普通ではない国としての役割を持つべき。

 

 どちらが正しくどちらが間違っているという話ではなく、それぞれが依拠する倫理や価値観に違いがあるだけです。

 

秩序維持に必要なコストのフェアトレード

 フェアトレードについても説明します。

 フェアトレードとはここ30年くらいで定着した概念・運動です。

 コーヒーやカカオなどを筆頭に、先進国の安価な消費の裏側で生産国の貧困・搾取・環境破壊という”外部不経済”が発生しているため、その外部化を是正して負担を適正に分配しようとした倫理をベースにしています。

 『公正』や『人権』といった概念が発展した先に生まれた、比較的新しい理屈と言えるでしょう。

 

 言ってしまえば、現代的な安全保障理論も同じです。

 日本の平和は他国の軍事的負担・犠牲など国際槌所維持コストの”外部化”によって成り立ってきたのであり、それを是正して国際秩序維持の負担を適切に引き受けるべきだ、としたこの倫理はまさしくフェアトレードの精神と言えるでしょう。

 もちろんこれらは別の分野ですのでフェアトレードを是とする戦後平和主義者やその逆も多数存在し得ますが、『公正』や『人権』の枠組みで再構築すれば構造としては同じであることが分かるかと思います。

 

戦後平和教育の到達点

 フェアトレードが話題になってから30年ほど経ち、若者世代からすれば生まれた時からある本質的な倫理です。戦後平和教育も称揚してきた『公正』『平等』『人権』が実った理論と言えるでしょう。

 今どきの若者世代は"宇宙船地球号"を結構本気で心から信じています

 そして、だからこそ戦後平和主義に対して不同意的です。

 国籍も、人種も、性別も、年齢も、文化も、宗教も、関係ない。世界中の誰もが同胞(はらから)であり、喜びも苦しみも負担もフェアであるべきだ。巻き込まれリスクと言ってそれから目を背けるのは無責任である。

 遠い国の誰かが傷つくことは家族が傷つくことと同じように重要なことであり、そこに差を付けるのはフェアではない。負担は公正に分担すべきであり、軍事的手法を避けるのは不平等である。日本だけが良ければいいと考えるのではなく、地球全体で考えるべきだ。

 私たちは特別なんかではない。普通である。特別という考え方は差別的で、公平でも平等でもない。

 フェアトレードの倫理からすれば、戦後平和主義は『公正』でも『平等』でもなく『人権』を守れていない、そのために不同意である。

 

 戦後平和主義を支持しない現代の若者に対して”不戦"や"生命"の倫理ベースで議論が成り立たないのは当然で、依拠する倫理のベースが異なっているためのすれ違いです。

 話し合いをするにせよただ理解するにせよ、このような差異は認知しておく必要があると考えます。

 

結言

 繰り返しとなりますが、正誤や善悪を比較しているのではなく、それぞれに別の理屈がある、それだけの話です。

 このブログで度々述べてきたように、私たちは同じ"常識"をベースに生きているように思えて、実際は異なる"公理"を持って生きています。

 別々の公理系はそれぞれ独立に成り立ちます。

 翻訳を挟んでそれぞれに住み分けたり擦り合わせたりすることはできますが、ぶつけ合っても意味はありません。