政治的な対立言論や対立集団を排除したいと"思った"時点で、それは政治ではなくなる。
政治の目的
ネットで政治関連の言説を拾い歩いていると、時々ですが、非常に暗澹たる気持ちになります。
憎悪や失望の声が根底に渦巻いておりネガティブでマイナスな瘴気が漂っていると言いますか、喧々たる最中で自らの政治的主張を他者へ届かせようと声を枯らして耳元で人々が叫び合っている、なんとも修羅の巷のようです。
私には理解が難しいのですが、政治的対立相手や政治家には罵言を用いても良いと考えていらっしゃる人が一定数存在しており、言説の質もあまり格調高くはありません。相手の思想や職業で扱いを変えることは世間一般に”差別”と呼ぶのですが、何故かそれが許容されがちな界隈です。本来的には率先して差別を無くしていくべきクラスタだと思うのですが。
そういった界隈で怨嗟の声をあげている人々は、『それでも頑張って政治活動をしており、苦しくとも戦わなければならないのが政治なのだ、なんとか誤った考えを駆逐し、正しい考えを人々へ届かせなければならないのだ』と思っているのかもしれません。
ただ、率直に言って、それは政治ではありません。
政治とは、辞書的に言えば「ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用」です。
もう少し丸めて言えば、「利害と価値の衝突を、暴力ではなく制度と対話で処理すること」であり、つまり本質的に融和と協力を志向した営為に他なりません。
それこそ極端な話、"極左"、”極右”、”ネットウヨク”、”ネットサヨクといったレッテルを貼られる人々たちを、どうすれば包摂して救えるかを考えることが政治です。
異なる主張や対立した意見集団を、打ち倒すべき政敵、排除すべき対象と捉える時点で論外であり、包摂が前提でなければなりません。
つまるところ政治の極意とは、どうすれば自分たちの意見を通せるかではなく、どうすれば他者の意見を受け入れられるかを考えることです。如何にして意を通すかではなく、如何にして折れるか、斟酌して自らを曲げられるかを考えることです。
闘争ではなく統合こそが政治の求めるところであり、それが出来ていない人は政治が出来ていない人以外の何物でもないでしょう。
政治でなければ、なんなのか
自分たちの考えが理解されない。
自分たちの意見が通らない。
自分たち。
自分たち。
自分。
自分。
自分。
どこまでも自分であるそれは政治ではなく、政治のことを考えているようで、ただ憎悪や失望のことを考えているだけです。政治とは相手を考えて斟酌することであり、自我や自論なんて些末なものに過ぎません。
政争、或いはそこまで行かないネットでのレスバトルなどを見ていると、次のような特徴が散見されます。
- 相手を正誤で見るのはなく、善悪の基準で"悪"とする
- 自身は利益を求めるのではなく、正義の体現を求めている
- 合意ではなく排除を目的としている
- 対話は裏切りであり、妥協は不道徳だと考えている
これが何に類似するかと言えば、宗教戦争です。
道徳を棍棒にして他者を殴っているのであり、政治の本質とは真逆とすら言えます。
各所で見られるバトルは、政治ではなく宗教戦争をしているのだと理解すれば、なぜ妥協と協力ではなく分断が進むかが腑に落ちやすくなることでしょう。
結言
もちろん宗教戦争をするのは自由ですので、それを止めるべきだとは思いません。
ただ、宗教戦争を『政治』とラベリングするのは避けて、政治は政治で正しく進められるよう住み分けたほうがいいとは思っています。