無知や浅慮は免罪符とはならぬが、裁きは慎むべし。
論理的整合性と藁人形論法
個人的に、ついやってしまいそうになるので気を付けている言い回しがあります。
それは、
「○○○は□□□すべきだ」
とした意見に対して、
「それは△△△すべきという意味か?」
と極端に強い言葉で批判するような皮肉めいた表現です。
例えば、
「世界は脱成長をすべきだ」
とした意見に対して、
「それはつまり、もっと人が死ぬべきだと言いたいのか?」
と言うようなものです。
ちなみに経済縮小で最も被害を被るのは弱者で、文字通り"致命的"な貧困が生じることはほぼ確実視されており、脱成長を広範にやると高齢者や低所得層などが真っ先に命を落とすことになります。
「□□□すべきだ」とした主張には大抵このような副作用や代償、リスクや損失が存在します。バラ色の未来をもたらす魔法の弾丸はそうそう存在しません。主張者はその反作用を充分に検討しているべきであり、無知・浅慮は無責任です。
つまるところ、個人的には「論理的帰結として、そういった犠牲を払ってでもやり遂げるべきだとした意思を持っている人が脱成長論者」だと思っているため、歪曲的で皮肉めいてはいますが真正面から相手の主張を批判する言葉のつもりです。芯のある脱成長論者であれば「そうだ、人は多すぎるのだ、実質的に殺すことになるがそれでも減らさなければならない」と言うだろうと信頼しています。
ただ、これははっきり言って藁人形論法(ストローマン)です。
相手の意図を勝手に固定化して主張を極端化している以上、詭弁以外の何物でもありません。論理が正しいかどうかではなく、”相手の主張を歪めたかどうか”に対して審判がなされます。たとえ正論のように見えようとも、もしも本当に正論だったとしても、これは詭弁であり、議論で使うべきではない手法です。
また、この形態の批判は「相手の論理や検討結果に対する否定」ではなく「相手が考えていなかったことそれ自体への否定、知性や人格に対する否定」となります。
要するにこれは人格批判であり、議論で用いるべき言説ではありません。
丸い批判
このように攻撃的な批判をする必要はなく、論理的な厳密さを擦り合わせることは可能です。
例えば「主流経済学の見解では、経済縮小による最貧困層への恩恵は歴史的な前例が無いと指摘されていますが、それはどう考えられていますか」と言ったように、人格攻撃とならないよう主張の構造的な懸念点をフェアに指摘することが無難でしょう。
相手も反論を考えたりこちらの意見に同意したりと、なにを選択するにしても耳を閉ざすことなく対話の余地が残りますし、上手く躱せば逃げ道もある以上、争う必要性も無くなります。
重要なのは”フェアな対話の維持”で、論理の整合性など二の次です。論理的整合性は保たれる必要がありますが、それはフェアな対話を維持できる方法が前提となります。
結言
要約すると、無知や浅慮は免罪符とはならず、なにかを主張するならばちゃんと論理的に予測される未来像の検証やリスク・デメリット・トレードオフを検討すべきです。
しかしそれを裁く権利が他者にあるわけではなく、詭弁や人格攻撃が許容されるわけでもありません。
無知や浅慮は誰にとっても免罪符とはならない、そういった話です。