建前は大切。
公人・権力者にも人権はある
「公人・権力者を馬鹿にして侮辱できるのが"自由主義"だ」と考える人が世の中にはいます。恐らく何かしらの言説や教育、政治風刺などに影響を受けているのでしょう。
昨今はジャーナリズムでも不適切な侮辱や風刺が多々見受けられますので誤解も止む無しではありますが、若干ばかり不健全だと感じます。
自由主義社会において保証される言論とは「批判の自由」であって「批難・誹謗中傷・侮辱の自由」ではありません。
侮辱は相手が公人や権力者であっても人権侵害であり、自由主義の価値と矛盾します。さらに、公人や権力者ならば侮辱してもいいと考えることはシンプルに職業差別であり、二重に人権侵害です。
自由主義・民主主義の根幹は「話し合い」、すなわち公共の理性的な討議にあり、その健全性を保つために言論や批判の自由が保障されています。批判は政策・行動・判断などを対象にした合理的な指摘であり公共の議論において必要不可欠なものです。
しかし侮辱は話し合いを破壊して自由主義が守ろうとしている公共の言論空間そのものを打ち崩しかねないため、むしろ自由主義とは相反する不適切な行為です。自由主義を謳うのであれば侮辱を用いるのは避けたほうがよいでしょう。
政治風刺の蹉跌
公人や権力者の批判において政治風刺の概念は無視できないでしょう。
政治風刺画では様々な公人や権力者がその容姿や人格を大衆から嘲笑されてきました。その流れから、公人や権力者には個人攻撃が許容される、それは風刺でありユーモアだと考える人もいるかもしれません。
それは言わば伝統に訴える論証と呼ばれる誤謬です。
厳しい話ですが、現代の価値基準にそぐわない過去の歴史を論拠にすることは妥当と思えないと言いますか、「昔は奴隷制があったのだから現代でも他者を奴隷として扱ってもいい」と言っているようなもので、昔からやっていることが今でも許容されるとは限りません。
また、そんな厭味ったらしいことを言わずとも、歴史に残る著名な政治風刺を見れば『後世に残る効果的で素晴らしい政治風刺』がどんなものか分かるかと思います。
【各国が中国をピザのように分割しようとするアンリ・メイエの風刺画】や【朝鮮半島を取り合う日中露の関係を魚釣りに例えたビゴーの風刺画】などが典型例です。他にも歴史に残る著名な政治風刺のほとんどが、見れば分かるように特定個人を侮辱するものではありません。
それもそのはずで、政治風刺は権力の不正・矛盾・滑稽さを可視化し人々に考えさせて公共の議論や利益に資するための批判です。社会制度や政策、権力の使い方そのものを対象とし、比喩や逆説など修辞技法を駆使した芸術性の高いものが効果的な風刺として人々に評価されます。
個人の容姿・身体・出自・性格・人格などの個人的属性を誇張し尊厳を傷つけようとするものは風刺でもなんでもなく、ただの侮辱です。
結言
繰り返しとなりますが、「公人・権力者は侮辱してもいい」「風刺と銘打てば個人攻撃をしても許される」と主張するのは、「昔は人種差別が許されていたのだから今も許される」と言っているようなものです。現代の価値基準では人権侵害や職業差別は許容されません。