無敵の理論。
本当に無敵だから困る。
自己正当化の循環
宗教関連では頻出で、たいへん困ったことに政治や社会問題の議論でも何故か時々見かけるフレーズとして、「私は正しい、よってそれに反対するお前は間違えている、間違えているお前を指摘できた私は正しい」があります。
......無くていいのですが、残念ながら存在します。
これは完璧で究極、或いは最強で無敵の理論です。
これを否定することは誰にもできません。
もちろん客観的には様々な批判が可能です。
自分の正しさを証明するために自分の正しさを前提にしているただの循環論法ですし、前提が固定されているため「反論してくるのは相手が間違えている証拠」だと回収される自己正当化と確証バイアスの権化でしかなく、「自分は正しいから他者の間違いを指摘する権利がある、何故ならば正しいから」と道徳的優越性の錯覚も引き起こします。
おまけに自らの正しさを守るため「相手は理解していない、相手は無知である、相手には悪意がある」と言ったアドホックな仮説が勝手に悪い形で妄想的に付け足されます。
このような自己正当化の循環は止められません。
なにせ、上で上げた詭弁や心理的バイアスは全て自己の内部で完結しているのですから。
「正しい、何故ならば正しいから」と信仰している人の信念を否定することはなんびとにもできないでしょう。
この循環に陥った人にとって、他者は全て敵ではなくなります。
「敵」とは"対抗してくる脅威"であり、自己の内部で完結している信仰を持つ人にとって外部は一切脅威とは認識されない以上、敵が居ない状態ですので無敵です。
ちなみに、敵がいないので他者を攻撃しなくなるわけでもなく、「攻撃性とは敵に対してだけ向くものではない、むしろ[対象]を選ばない」というこの世の真理、或いは残念な現実を世に知らしめすだけとなっています。
困ったものです。
一応の補足として、攻撃性は[対象]依存ではなく[状態]だと認識するのが分かりやすいでしょう。
不安や欲求不満が高まると家族や身内であっても攻撃性を発露することがありますし、集団では内部で粛清が生じて仲間を攻撃するパターンもあります。また、アイデンティティに関わるポイントでは議論相手だけでなく異論や違いそのものに対して攻撃したい気持ちが沸き起こります。
よって"無敵"の人であっても普通に周囲を攻撃します。
困ったものです。
「信じる者は救われる」は真
延長線として、救済宗教の基礎である「信じる者は救われる」は嘘でもなんでもなく真です。
- 信じていて救われた➡グッドパターン、信仰が正しいと強化される
- 信じていて救われなかった➡信心が足りないと判定、救われるまで無限ループに突入
- 信じていないで救われなかった➡信仰していないからだと批判、信仰が正しいと強化される
- 信じていないで救われた➡そもそもカウントされていない
このような場合分けとなるので命題を否定するパターンが存在せず、教義(ドグマ)は一切傷つきません。必ず「信じる者は救われる」ことでしょう。論理的に正しいわけではありませんが、これも自己正当化の循環です。
結言
ネットでこの手の論陣を張っている人に対して突っかかってレスバトルをしている人を見かけますが、個人的にはおススメしません。
それは狂信者に対して「お前の神は間違えている」と指摘するような行為です。
面と向かってやった場合、暖簾に腕押しとなればラッキーで、下手をすれば刺されかねません。ネットで距離があるから即座に刺されないだけで、遠距離でも刺されかねない行為だと重々留意し、君子危うきに近寄らずとしてバトルは控えておいたほうがいいのではないかと思う次第です。