このブログでは幾度か利己主義に対する苦言を呈してきました。
個人主義との違いを整理したり、個人の悪と社会の悪の話をしたりと、切り口を変えては同じ対象を突いてきたように思います。
今回はもう一歩踏み込んで、利己主義に対して社会はどう対処すべきかを考えてみます。
利己主義とは何か
まずは改めて定義を整理しましょう。
全体においては全体、個人においては個人を明確に区分し、他者もまた個人として尊重する思想が個人主義です。対して、他者の権利や利益を顧みず、自らの利得のみを優先する発想が利己主義です。
個人主義は他者の"個人"を尊重するからこそ成立し、利己主義は他者を顧みないからこそ成立します。これらの区別の基準は、自分自身の欲得ではなく他者の領分をどう扱うかです。
利己主義のデメリット
利己主義の最大の問題は、行使の時点で他者の権利を侵害しかねない点にあります。自由市場における公正な取引と自己利益の追求は双方の権利を尊重するために必要な前提ですが、利己主義者はその前提をそもそも守らないため、他者の権利を容易に侵害しえます。
また、信頼や協調は双方が一定のルールを守るという期待の上に成立します。利己主義はその期待を一方的に裏切る行為であり、短期的には得をしても長期的には信頼という基盤そのものを掘り崩します。さらに、取引相手や共同体が「どうせ裏切られる」前提で動き始めれば協調によって得られたはずの利得ごと失われるでしょう。
つまるところ、利己主義は「権利を侵害する可能性が高く」、「信頼資産を損ねて当人にすら長期的には損失となり」、「社会全体の基盤まで脆弱化させる」考え方であり、個人的にはあまり推奨できないです。
説得アプローチの限界と仕組みの提案
では利己主義にどう対処すべきか。
真っ先に思いつくのは説得や教育、難しく言えば「道徳観の涵養」です。
しかし、これはあまり現実的な解決策ではないと考えています。
なにせ性格や価値観は容易に変わるものではありません。利己的な人を説得して公正な人間に変える類のアプローチは成功率も再現性も低い割に多大な労力が掛かりますし、本人の同意なき内面への介入という側面もあります。個人の内面に働きかけるより、内面が変わらなくても結果的に公正な行動を選ばざるを得ない状況を作る方がよほど現実的です。
つまりは説得による矯正ではなく設計による包摂です。
利己的な人格を無理に変えようとせず、公正に振る舞う方が得になる、あるいは不公正な行動が割に合わなくなる、そうした誘因構造を持つ社会を構築すれば、その中に利己主義があっても問題ない、仕組みによって包摂する発想が現代的でしょう。
たとえば、被害が少額・分散していて摘発コストが受益を上回る場面では、個々人が単独で訴えるのではなくまとめて動ける仕組みがあれば「割に合わないから泣き寝入り」という構図を崩せるかもしれません。利己主義による人権侵害の罰を大きくするわけではなく、罰を受けやすい構造にすることで抑止を図る発想です。
表面上の匿名性とは別に個々の評判データを蓄積することも効果的でしょう。人は顔や素性がバレないとなると利己的になる傾向があると言われています。よって持続的な仮名による自由な表現や発信は妨げず、しかしその個人の信頼蓄積や侵害は記録されるようになれば、自儘に振る舞うことへの抑止になるでしょう。
組織における責任の希薄化と匿名化に関しては、誰がどの判断をしたのかを後から追える形にしておくだけでも、羞恥や評判という抑止力を組織の中に取り戻す一助になるはずです。
いずれも決定打ではなく、方向性の話に過ぎません。ただ、個人の性格をどうこう言うよりは仕組みの伸びしろを探す方が現実的だと思います。
結言
性格を変えることは他人の内面に踏み込み過ぎていますので推奨しません。性格に介入するより、仕組みで包摂する方向性の方が妥当だと思っています。