このブログでも度々言及してきたように、私はどちらかと言えば相対的平和主義を支持しています。国際政治はアナーキーであり、透明性と信頼形成を伴いながら能動的に軍事力を設計・運用して均衡を取ることが結果として戦争を防ぐことになると考える次第です。
ただ、そのような考えに至ったのは絶対的平和主義を拒絶してきたからではありません。むしろ真逆で、平和論の理屈を丁寧に追いかけた結果として、この立場に行き着きました。
絶対的平和主義の論理
最初に教わったのは、おそらく多くの人と同じように「軍備を増やせば戦争が近づく」「有事を語ることは戦争を近付ける」「対話と協調を基本とすべきだ」という考え方でした。
これらを軽んじるべき直感とは思っていません。
「軍備増大が有事を近づける」という直感は安全保障のジレンマとして理論が整理されています。防御目的の軍備増強であっても相手国からは攻撃的意図と区別が付きにくい以上、ある国が軍備を増強すると相手国も同様に増強し、双方が望まないまま緊張が高まっていくことが起こり得るのは妥当な発想です。
「政治が有事を語ることで有事のリスクが高まる」ことへの警戒も、セキュリタイゼーションとして定型化されています。ある問題を「安全保障」の言葉で語ること自体が、通常の民主的審議から問題を切り離して例外的な措置を正当化する行為になりかねません。そして例外状態は一度成立すると常態化しやすくなり、結果として予言の自己成就のように有事を語る行為は有事へ自らを近付けていくことになります。
「対話と協調の重視」も必然的です。合理的戦争原因論からすれば、情報に透明性と対称性があり約束が守られると信じられる場合は戦争に至らないと指摘されており、それらは対話と協調無しに実現し得ません。
平和理論の延長
ところが、これらの理論からもう一歩踏み込むと方向性が若干変わります。
安全保障のジレンマは、攻撃用と防御用の装備が区別できず、信頼を示す手段が双方に無い場合に限って緊張のスパイラルが生じることを前提としています。逆説的に、双方が意図を明確にして透明性を保ったうえで軍備を構築した場合、軍備の存在はむしろジレンマを緩和して緊張状態を回避する手段となります。
セキュリタイゼーションの焦点は軍備の有無ではなく「権力を縛る制度設計の精度」であり、戦争リスクの大小については妥当な推論ですが絶対的平和主義を補強する理論とはなりません。
合理的戦争原因論はさらに厳しく、戦争原因は「相手の意図や軍備についての情報不足」と「約束を守らせる手段の欠如」と特定されるため、対話を機能させる拘束力としての軍事力はむしろ肯定的に取り扱われます。
つまるところ、平和への理論を丁寧に補強すればするほど、
「対話に頼り軍備を遠ざけよ」とした結論だけでなく、
「透明性と信頼形成措置を伴う能動的な防衛力の構築」という結論にも同じくらい自然に辿り着きます。
これらは真逆の発想どころか同じ根から伸びた異なる枝です。
どの枝を選ぶか
同じ理論の土壌から出発して別の枝へ辿り着く理由として、これは論理の緻密さや知性の問題ではなく、もっと別の根底的な認識の違いによって生じると考えています。
一つ目は、道徳的な重心の違いです。
絶対的平和主義は「国家権力による抑圧」を最も警戒すべき危害として見る傾向があり、相対的平和主義は「侵略によって生じる被害」を最も警戒しています。これらは世代や経験によって異なるものであり、どちらも「害を防ぎたい」とした道徳は同じで、ただ重心が違うだけです。
二つ目は参照している記憶の違いです。
「日本の戦争」を参照点とする人は、国家の暴走による被害が強く呼び起こされます。一方、戦後に外国で起きた戦争を参照点とする人は、抑止の機能・失敗による被害の変化に着目します。どちらの参照点が「正しい」というよりも、世代や教育を通じて刷り込まれた記憶が違うだけの話です。
三つ目は、リスク許容の方法の違いです。
国家権力への警戒自体はどちらの立場であっても共有しています。その警戒を「保有自体の抑制」と「運用や制度による抑制」に向けるかで、選ばれる方法や結論が変わります。
例えば私の事例として、
- 私は「国家権力による抑圧」をそこまで強く警戒していません。もちろん命題「国家権力は抑圧しうる」は真だと思っていますが、「現在の日本でそれが実現する確率とコスト」は、そこまで高くないと見積もっているためです。報道の自由、司法の独立、選挙による政権交代の実績、SNSによる直接批判のインフラなど、権力が暴走しようとしたときの歯止めは多数ありそれだけリスクは下がっていると考えます。「だから安心だ」というわけではなく、「だからこそ歯止めの維持が重要」であり、そのためには公正さを相互に優先することが合理的です。セキュリタイゼーションを援用すれば、「市民が不公正に政治を否定すると、政治はかえって抑圧を強める」と言えるでしょう。
- 私は参照点をなるべく新しいポイントにすべきだと考えています。古い事例ほど情勢や環境の変化を変数として考慮しなければならず、歴史的類推の方法論としては新しい事例を選んだほうが正確性が高まると考えられるためです。もちろん「その事例を選んだ理由」を適切に説明できる必要は変わらずありますが。
- ゼロリスクは不可能でありヒューマンエラーは必ず起こるため、コントロールではなくマネジメントを行うべきだと私は考えています。絶対的平和主義の構造は「コントロール思考・ゼロリスク思考」であり、工学的な安全設計の観点からすると少し脆弱です。相対的平和主義は「マネジメント思考」に基づき、「戦争リスクをゼロにしようとする」ではなく「戦争が起きにくくなる構造を設計し、フェイルセーフ・リダンダンシー・モニタリングなどによって被害を最小化する」発想であり、私のような工学屋にとっては標準的な考え方です。少し厳しい指摘ですが、「軍備を持たなければ安全」とした設計は、相手が同じ前提で動くことを必要条件としているため、一点が崩れると全体が崩壊するシングルポイント・オブ・フェイラー(単一障害点)になっています。それよりはマネジメント志向の冗長設計の方が現実の不確実性に対して頑健です。
私の主張が正しいというわけではなく、私はこのように考えていることの開示です。
対話のための開示です。対話が基本であることを崩すつもりはありません。
そして対話とは議論や批判ではなく相互理解のために用いる手法であり、まずは相互理解が可能かどうかから対話ができたらいいと考えています。
結言
絶対的平和主義と相対的平和主義は、現実的には対立した思想ですが、理論的な土壌を同じくする同じ根から伸びた別の枝だと私は考えます。
二つを分けているのは、知性でも正誤でもありません。
ただ、道徳的な重心の置き所、世代を通じて刷り込まれた参照点、そして警戒の向け先、そういった論証よりも手前にある価値観や認知と言った違いが同じ土壌から異なる結論を育てているのでしょう。いずれにせよ、枝が異なるだけの話です。