忘れん坊の外部記憶域

主に時事やビジネス、政治経済や興味を持ったことについて書き散らしています。

多様性とリベラル思想~悪いことを排除すべきか

 海外ではドラゴンボールは暴力的、女性差別的だから放送を中止すべきという議論があるようです。

 この手の話題を見る度に思い出すのが以下の言葉です。

「高邁な理想と下劣極まりない妄想を共に抱けてはじめて人は人たりうる」

 皇国の守護者という小説に登場する老齢の政治家、駒城篤胤の台詞で、風紀を乱すと思われる出版物を国家が規制すべきかという議論において発した言葉です。

 少し長くなりますが引用してみましょう。

 「高邁な理想と下劣極まりない妄想を共に抱けてはじめて人は人たりうる」

 実は篤胤がこの言葉を用いるのは二度目だった。

 進歩的な発想、と評すべきだろうか。難しいところがある。

 篤胤は強烈な開明的保守主義の徒であった。世が飛躍的に発展するのは結構だが、その際にあまり大きな犠牲を払うことには賛成できない。民草に大きな犠牲を払わせて飛躍を手に入れるより、日常の中でこまごまと手直しした方が最終的な成果は大きいと考えている。

 それゆえか、道徳の押しつけ、耳心地よい正論の類を心底から唾棄すべきものと考えていた。そこには段階的な進歩に必要不可欠な、余裕というべきものが存在しないからであった。

 彼はこう信じている。

 確かに、一点の曇りもない信念は素晴らしいものではある。

 しかし、それが民草の暮らしを幸福にするとは絶対におもえない。異なる見解を抱く自由すら制限しかねないからである、と。

 そこから、以下のような台詞に繋がります。

 「人は一枚岩ではない。良きものと悪しきものをともに抱いて、はじめて自分の進むべき道を見いだせる。どちらか一方しか知らぬのでは、それがたとえ良きものであったとしても、人として生きていることにはならない。」

 「快不快は情である。情とはもとより個人に拠るものであって、御国が容喙するには及ばない。むしろ、政断ではなく情断をもって動くことこそ御国にとっての恥である。国権とは民草を縛るためにあるのではない。あくまでも御稜威が下、民草の鼓腹撃壌を安んずることを目的として陛下よりお預かりしたものである。我らがそれを忘れぬ限りにおいて、民草は陛下が忠良なる赤子たりえ、御国が万年の栄華に与力する。よって個人が行為をともなわない願望の範疇においてなにを好もうと、これを国権が阻むべきではない。」

 「そのための教育ではないか。学舎で、兵舎で、御国は民草に良きものを学ばせる。世間は良きものと悪しきものを共に伝える。そうしてはじめて、人は何が自分にとって意味があるのかを知る。恥を学ぶ。不安があるならば、教育への徹底的な援助を行えばよい。いや、むしろそれこそが国権において為すべきものである。」

 「悪いものを排除しよう」という動きは実に禁酒法の轍を踏みそうな予感しかしないため、警鐘というほどではありませんが少し意見を残しておきましょう。

 

 世の中には良いものと悪いものが溢れています。簡単に白黒分けられるものばかりではなく、むしろ世界は実にカラフルです。見る人によってもその色合いは変わってくるでしょう。赤が良いと思う人もいれば、青が良いと思う人もいます。この色はブラックかグレーか、と問われたときに答えが分かれる場合もあるでしょう。

 リベラルの教義であるEquality, Diversity, and Inclusion(平等、多様性、受容)を実現しようとした場合、悪いものを除去し切るのは不可能です。誰かにとっての悪いものは、別の誰かにとっての悪いものでないことは当たり前に存在します。悪いものを排除するには全ての人間が同じ価値観を持たなければいけません。同じものを良いと思い、同じものを悪いと思わなければいけないのです。それはもはや多様性を完全に失っています。

 よって本来的にはリベラル思想の人間こそ悪いものを受容しなければいけないのですが、昨今の欧米リベラルは悪いものの排除にとても熱心です。迷惑なことに日本にもその思想は輸入されてきており、何かあるとすぐに差別主義者のレッテルを貼って社会から排除しようと頑張っている熱心な活動家の方々が多くいます。多様性を守るために多様性を排除するという自己矛盾に完全に陥っているわけです。

 

 先ほど教義と書きましたが、まさに現代のリベラルというのは宗教です。科学技術の進歩に従いキリスト教会が権力を失いつつあった中、その代替となって欧米で登場したのがリベラル思想です。人々は差別という「原罪」を持っており、贖罪としての平等を果たさなければいけないというのはキリスト教的な考え方です。

 つまり、世界を全て白く染め上げて、さらにその白を良いものと思うような人間だけを残すというのが彼らの活動です。ディストピア思想ですね。

 

 冒頭にあげたので暴力をテーマにしてみましょう。

 悪いものを排除するということは、例えば子供に暴力的な作品や情報を与えないということです。世間でもこのような方針の人は多数いることでしょう。暴力的な映像やゲームを与えられた子供が将来的に暴力的な行動を取るかどうかは様々な研究によって相関が無いことが分かっていますが、子供は影響を受けやすいため与えたくないというのも分かります。

 しかしながら無菌室のような環境で暴力から隔離されて育った子供は、大きくなると世間には暴力が存在することを学びます。頭の良い子であれば教育の意図を理解してくれますが、そうでない子供は2つのパターンを取ります。「騙されていた」と親や世間を侮蔑し軽んじるようになるか、「隠されていた世の真実を知った」と誤解して暴力に染まるかです。いずれも堂々たる莫迦者と言えるでしょう。

 価値とは相対的なものである以上、良きものと悪しきものの双方を知らなければどちらに価値があるかを判断し、選択することができません。選択肢があり、それでも悪しきものを選ぶということ、人はそれをといいます。悪しきものから隔離していると恥の概念を学ぶことができないのです。

 教育において必要なことは、良きものと悪しきものが世間には存在し、悪しきものを選ぶのは恥であることを学ばせることです。自らが選択ができるようになって初めて世間に気後れしない立派な大人といえます。

 

 世間から悪しきものを完全に排除できれば教育は不要でしょう。ですが実際にそんなことはできるのでしょうか。

 先述したように、多様性を完全に排除して全ての人間が同じ考えや価値観を持てばできるでしょう。つまり、できません。無駄な手間どころか悪しきものを地下に潜らせてその成長を手助けすることになります。

 顕著な事例としては1920年代のアメリカにおける禁酒法でしょう。

 かつてよりアルコールによる酔いは神の恵みで、乱用は悪魔の仕業であるとの共通認識がキリスト教圏ではありました。乱用を避けるためには教育に注力してドライ(冷ややか)な感情を育てることが有力だという主張がありましたが、結局は様々な議論の末に製造・販売・輸送が禁止される事となりました。その結果、アルコールを求めて国境を超える者が多数現れ、違法なアルコールの売買によりギャングが急成長し、アメリカの治安が著しく悪化することとなりました。

 実業家であるジョン・ロックフェラーの手紙が当時の記録として残っています。

 禁酒法が提出された時、私はそれが大衆の意見によって、広く支持される日が来ることを望みました。そして、アルコールの凶悪な影響が認められる日が、すぐに来るだろうと思いました。しかし、これが私の望んだ結果ではないと、不本意ながらも信じるに至りました。

 飲酒はむしろ増加しました。不法酒場がサロンに取って代わりました。犯罪者の巨大な群れが現れました。我々の最高の市民の多くでさえ、禁酒法を公然と無視しました。法律の遵守は大いに軽んじられました。そして犯罪は、かつては決して見えない水準にまで増加しました。

 臭いものに蓋をしても無くなりませんので、世間や法律を軽んじる恥知らずが量産される結果となりました。

 

 アメリカという国は極端で面白い国で、この禁酒法の失敗を反省したつもりなのか麻薬については一部州でまったく反対のことをしています。現在オレゴン州ではハードドラッグの合法化が行われています。「麻薬の乱用は彼らの責任ではない、社会の責任である。彼らは弱者であり、可哀そうな彼らに麻薬を与えてあげなければいけない。」という理屈で、州政府が率先してが麻薬の提供を行っています。その結果、アメリカ中から麻薬中毒者が集まり治安は目を覆わんばかりになりました。オレゴン州ポートランドはかつてアメリカで最も住みやすい街と言われていましたが、現在では路上のあちこちにヘロインや注射器が散らばり、破壊された車が転がる末世のような有様です。まあ麻薬中毒者には今でも住みやすいのかもしれませんが。

 つまり、悪しきものは助長してはいけないし、禁止するような行為も難しいということです。実効的な方法としては教育に注力して社会全体で悪しきものを恥と思うような感情を育てる以外にありません。

 タバコなんて良い例ではないでしょうか。かつては「ハードボイルド」「自由の象徴」といったカッコいいイメージをタバコは持っていました。現代の我々からすると「臭い」「お金の無駄」「健康に悪い」「ニコチン中毒」というようなダサいイメージのほうが強いと思います。これこそまさに教育の成果です。悪しきものはダサく、手を出すのは恥である、と教育することに成功すればその悪しきものの伸張を阻害することができるのです。