「少数派の意見に対して多数派が耳を貸さない場合において、その意見を通して物事を変革するためには暴力的な手段も許される」
個人や何らかの団体が暴力的な手段に出たり、強硬な態度を持って自論を押し通そうとする際に時々見かける言説です。古くから述べられてきている言説であり、最近では美術品を強襲した環境団体の事例でも見かけました。
暴力的手段の是非に関して
これは一部の側面では筋が通っています。
確かに少数派の意見は多数派と比較して相対的に小さくなることから封殺されがちなものですし、それによって少数派は疲弊しています。手段を選んでいる場合ではなく、まずは意見を全体へ届けなければならないという現実があるでしょう。
声を張り上げてきて疲弊した人達に対して「伝え方が悪い」と言うのは多数派の傲慢なトーンポリシングだと言われれば、それもまた心情的には分かります。
過去の様々な事例から見ても、暴力的な行動が物事を良く変革したことがあるのは事実です。
マルクスによる階級闘争の論理に従えば、構造を打破できるのは暴力的な非合法的手段となるのは必定でもあります。
だからといって暴力的な手段に同意する気は一切ありません。上述した内容はいずれも暴力的な手段を取る一因ではありますが、暴力的な手段でなければならない理由にはなっていないためです。
現代社会で意見を伝播するのにおいて数の論理はそこまで支配的では無くなっています。少ない資本で発信メディアを持つことができますし、何も自らがリーダーシップを握って発信する必要は無く、発信力が高い人に発信をしてもらう手段を取ることが可能です。
人に何かを伝える上において「伝え方」はとても大切です。どれだけ正論で適切な言葉であろうと罵詈雑言や暴力的表現が含まれていればそれを忌避して耳を塞がれてしまいます。
暴力による変革が成功した事例の背後には暴力によって失敗した事例が無数に存在します。暴力で成功した事例だけを声高に叫ぶのは認知バイアスに他なりません。
階級闘争における暴力は資本主義に対抗する手段であり、それは民主主義社会において非合法手段を取ることの理屈とはならないでしょう。
何よりも暴力的な手段は意見を広く伝達して支持者を獲得する可能性があるのと同時に、大勢の抵抗勢力を生みかねない行為です。意を通すには(賛同者)-(反対者)がプラスにならなければならないのが民主主義であり、反対者を増やすような行いはまったくもって合理的ではないと言えます。
以上より、自論を通すためには暴力的な手段が許容されるという過激派の考えに私は同意しかねます。
他責性に関して
何よりも私が理解しかねているのは過激派の他責性です。
暴力の容認論は「我々の意見が聞き入れられないのは他人が悪い、周囲が悪い、組織が悪い、社会が悪い、だから我々は暴力的手段で訴えるのだ」と、物事の責任を他者に押し付ける言説です。そこでは暴力を振う自己の意思決定ですら自己の責任とはみなしていません。責任の意識なく他者へ暴力を振るうのは、多数派の無意識的暴力と同等の卑劣さを感じます。
そもそも、社会的、あるいはビジネス的なロジックからすれば「商品が売れないのは顧客が悪い!」「この商品が売れないのは市場のせいだ!」という言葉は成り立たないでしょう。もちろん愚痴としてこぼす程度のことはあるでしょうが、最終的には自責的観点に立ち戻り「どうすればこの商品が売れるか」をマーケットインで考える必要に迫られるものです。
変革も同様であり、意見が受け入れられない場合はなぜその意見が受け入れられないかを検証し、どうすればその意見が受け入れられるかをマーケットインで考えて伝達方法を改良することが不可欠です。それも無しに他責性の暴走によって交渉の場を破壊してしまうのは、やはり下策ではないかと考えます。
自責でなければならず他責は許されない、とまでの極論を述べたいわけではありませんが、徹底的に他責に偏ってしまっているのは若干不健全ではないかと愚考するばかりです。
他責性を外部に押しやるためには
とはいえ、一方的に少数派がやり方を改めるべきだとも言うつもりはありません。そのきっかけである”多数派が耳を貸さない”という無関心にも焦点が当てられるべきです。「暴力を振うあいつらが悪い!」だけでは非常に他責的で、同じ穴の狢です。
必要なのはアクセス可能な経路を構築すること、レセプターを生成することだと考えます。つまりは窓口の構築です。
「このような伝達をしてもらえばこちらも話を聞けます」
「ではこちらも形式に沿って伝達します」
といった双方合意できる範囲のルールを構築し、そこからはみ出した行為は明確に拒絶されることが必須です。
そしてそういった陳情の仕組み、意見を伝達する仕組みは独裁・専制国家ならばまだしも民主主義国家においてはすでに整備されているものです。
そのため、やはりルールを逸脱している暴力的行為は是認しかねます。必要なのは民主的なルールに基づいた行動であり、手を入れるのであれば暴力ではなく窓口機能の強化です。
結言
他責性の暴走による暴力はエスカレートせざるを得ないものです。暴力によって変えることが認められた場合、それはより大きな暴力によって打ち消されることになります。よって私たちは暴力の応酬をこそ避けねばなりません。
そのためには多数派と少数派、双方の自責的な改善が必要です。
少数派は安易な暴力に走らず、伝え方を意識して注意すること。
多数派は少数派の意見を聞き入れる姿勢を持ち、耳を貸すこと。
ルールを遵守し、規律を維持しつつ物事を変革すること。
私たちの社会から暴力を排除するためには、片一方の尽力に依らず、双方の歩み寄りが不可欠だと考えます。
余談
過激な意見はそういった意見がそこに存在するという指標であり、それは社会の”シグナル”として必要だと思っていますので、それを排除すべきとは思いません。
つまり、意見や言論の排除ではなく暴力の排除を行うべきだと考えます。