選挙が終わると、各所で「民意」を用いた言説を見かけるようになります。
ただ、「民意」はそこまで安易に用いていいような言葉ではなく、むしろ個人的にこの言葉は取り扱い注意だと考えています。
人々を区切ることの危険性
選挙で多数派となった側は「これが民意だ」と述べ、選挙で少数派となった側は「民意が反映されていない」と語ることが常です。
とはいえ民意とは『人々の意思や考え』であり、極めて総体的なものです。多数派となった候補者に投票した人、少数派となった候補者に投票した人、そもそも投票をしなかった人、それら全ての合計が民意であり、特定の勢力が切り取って自勢力の都合が良いように用いていいような類の言葉ではありません。
そもそも選挙や多数決とは集団内での代表意見や代表者の選定行為です。決して集団を区分して勝敗を決めるようなものではありません。その点を忘れてはならず、選挙や多数決をするのであれば同じ集団としての紐帯を強く認識しなければ容易に集団は分断します。
選挙や多数決を勝負事だと誤認している場合、多数派は「勝ったのだから敗者は従うべきだ」と自らの正当性を居丈高に語るようになり少数派を迫害しかねません。少数派は自分たちの意見が代表されない集団への帰属意識を失い、多数派の敵、より厳しい表現をすれば反社会的な性質を帯びかねません。
安易に「民意」を用いる弊害はまさにこの点、社会の紐帯を切り裂き分断を加速する効果があるためです。
すなわち、「これが民意だ」及び「民意が反映されていない」とした言葉が脳裏に浮かんでくる内面には異なる見解を持っている人を同じ集団の仲間だとは認めない意識が存在しています。そうでなければ自らの投票した候補者以外に投票した人々の意見は民意ではないとするような言葉は出てこないはずです。
その点を理解せずに「民意」を用いることは、多数派の横暴へ認可を与えるようなものであり、同時に少数派の暴力的な行動を追認するようなものです。どちらにしても民主主義を毀損する方向性に他なりません。
よって多数派であっても少数派であってもやたらと用いていい言葉ではないと私は考えます。
小学生でも分かること
選挙や多数決に関して、私は学校のクラス委員長をよく例としています。
子どもの頃、学校でも何らかの選挙があったと思います。
例えば3年B組でクラス委員長を決める選挙があって、立候補が2人いたとしましょう。多数決によって片方が選ばれますが、では選ばれなかった側が団結を拒み別の集団として3年B-1組を作る、なんてことには当然ならず、多数派の意見に従うでしょう。また選ばれた側も選ばれなかった側をクラスから追放したり無視するようなことはせず、選ばれなかった側の意見だって取り入れます。
子どもでも出来るそんなことが大人になったら出来なくなるのは、なんとも不思議なことです。
大人がやったとしても本質は変わらず、選挙や多数決は集団の代表を選定する行為です。その結果は多数派が横暴な態度を取る免罪符でもなければ、少数派が多数派を批難するための道具でもありません。
結言
多数派が横暴をしないよう、そして少数派が意見を述べられるようにするためには「同じ集団の仲間」であることの認識、すなわち社会の紐帯を維持することが不可欠です。多数派の見解も、少数派の見解も、投票へ行かず意見を表明しなかった人が持っている見解も、全部を足したものが「民意」です。ただ異なる見解を持っているだけで敵ではなく、どれも攻撃したり排除していいようなものではありません。
そのためには選挙や多数決をそもそも勝敗で捉えないことが重要です。
当の政治家たちは生活が懸かっていますのでつい勝敗で選挙を語ってしまうのは仕方がないことですが、それ以外の有権者が乗る必要はありません。選挙や多数決は集団内での代表意見や代表者の選定行為に過ぎず、その結果がどうであろうと同じ集団の仲間であって、争う必要はないのですから。
余談
あまり強い比喩や言葉を用いたくはないのですが、「民意」の言葉を用いて敵味方を区分する発想、すなわち「異なる見解を持つ相手は敵」とする考え方は政治的思想の位置を問わずどこでも見かけますが、それは言ってはなんですが太平洋戦争中に「戦争へ反対する奴は非国民」と言っていたような人々のメンタリティと地続きなのではないかと愚考します。
もちろんこれはヒトラーに例える論証的ですので、愚見ではあるのですが。