忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

言論・メディア

不確かな情報の価値

年に数度しか帰省しない親不孝者のボンクラ息子ではありますが、さすがに盆と正月くらいは実家に顔を出して両親に生存報告をします。 姉と妹が実家の近くに住んでいますので私は別にそこまで顔を出さなくてもいいかな、などと少し思っていたり。まあ、ただの…

違う意見を聞くのは楽しいことなんだ

油断をするとヘビィなテーマを語り始める当ブログ。 堅苦しい話が連続しないよう、なるべく軽い話を織り交ぜていきたいものです。 つまり、今回は軽い話をします。 とはいえ軽重は人が判断することでもある以上、必ずしも軽い話になるとは限りません。 物語…

【善悪】と【好き嫌い】は意識的な切り離しが必要

家庭や学校の教育では善を為し悪を厭うことを学び、物語によって善を肯定し悪を否定することを刷り込まれることから、大抵の人は善を好み悪を嫌うように育つかと思います。もちろん例外はあるものの、善を好み悪を嫌うことは社会的に正しい定型として存在す…

頭が良い人ほど間違いを認められない

人は時に異なる意見を持つ相手を誤った愚か者だと考えてしまうことがありますが、異なる意見だからといって誤っているとは必ずしも言えません。人それぞれに異なる思想や信念を持ち、何を重視しているかは違うことから、同じ情報を受け取ったとしても同じ結…

単純化のバイアスを解消するための簡易的な方法

ビジネス系の情報を見て回っていると、週に何度も「頭の良い人とそうではない人の違い」みたいな宣伝文句を見かけます。 それが記事を読ませるための惹句であることは重々承知しつつも、そもそも頭の良い人はそんな単純に世の中の人を二分しないのではなかろ…

話し合いでは意見を述べ『なければいけない』

少し苛烈ではありますが、私は会議の場などで発言しない人に忖度しません。意見を出した人だけをはっきりと優先して扱います。 これは一部の意見を排除することが目的ではなく、むしろどれだけ異端な意見や多数派と異なる意見であっても意見を述べるのであれ…

「誰が書いたか分からない記事は信用するな」の匙加減

「誰が書いたか分からない記事は信用するな」はよく言われていることです。 文責が不明確な記事よりは明確な記事、無記名よりは記名記事のほうが信頼度が高いと評価するのは自然なことでしょう。 ただ、それは匙加減にもよると思っているため、それに関する…

無責任だとする指摘の無責任性と、助言の存在価値

A「仕事辛い、会社がブラックだ」 B「辞めちゃえばいい」B’「もう少し頑張ってみたらどうだ」 C「それは無責任な発言だ」 このような流れのコミュニケーションを時々見かけます。仕事に関連して、4~5月頃のSNSでは特に。 ・何かしらを継続することへの疑義 …

意見対立時は二項対立ではなくアナログ思考で

土曜日の夜。 お腹が空いたためご飯を食べに行こうとお家を出たら、駐車場に車が無い。 盗まれたか? ああ、いや、そうではなかった。金曜日に会社の飲み会があったから、車を会社の駐車場に放置したことを忘れていた。 調子に乗って飲み過ぎたせいで土曜日…

議論(ディスカッション)と討論(ディベート)は目的もプロセスも異なる

以前にも記事にしたことがありますが、議論(ディスカッション)と討論(ディベート)は似ているようで異なる概念です。 議論と討論は異なる概念です。様々な意見を持った人々が集まり共通の結論を探し求めるのが議論で、対立した意見をぶつけ合いどちらがより良…

政治的公平を掲げるならば、安易に権力の監視を謳うべきではない

今回は言論やメディアと権力の距離感、及び「権力の監視」に関する思索です。 本来的に[権力]と[政府]はイコールではなく、ジャーナリズムが距離を置くべきは[政府]に限らず[政府を含めた全ての権力]ではありますが、今回は話を単純化するため[権力=政府]で…

誰が言っているかでフィルターするのは合理的だけども

軽いんだか重いんだか分からない話。 なんだ、○○○か インターネットを徘徊していると、特に党派性が高い堅苦しい分野に限らず、どの分野でも情報に対する嗜好での選別行動を見かけることがあります。 それは例えば「なんだ、○○○が書いた記事か」「タイトルだ…

「権力の監視」はジャーナリズムの目的か:手段と目的を混同する危険

ジャーナリズムの機能として挙げられる「権力の監視」。 まるで錦の御旗かのように声高に語られる「権力の監視」とは、一体どこで定められたもので誰が認めたものなのか、見かける度に疑問を感じてしまいます。 過去にも同様の記事を書いたことがありますが…

両論併記は陰謀論の温床か、それとも予防か

両論併記に関する昨日の記事の続き。 両論併記に対して否定的な見解の一つとして、次のような言説も存在します。 「両論併記によって陰謀論が広まってしまう危険があるため、両論併記は避けるべきだ」 これについても私は否定的な見解です。むしろ逆に、両論…

両論併記の是非と責任の所在

「このような言説を世間に開示しては世の中の人々に誤解を与えてしまう」 「だからこそ両論併記はすべきではない、正しい情報だけを世間に流通させなければ」 時にメディアの言論人が語るこのような両論併記に対する言説について個人的には否定的なため、当…

「言葉の重さ」に関する考察と私見

ブログをやっている人にはあるあるだと勝手に思っているのですが、 「あの人、最近あんまりブログを更新しなくなっちゃったな・・・」 と寂寥感を覚えていたところで、久しぶりにブログの更新があると嬉しくなりますよね。ね?(同調圧力) そんなわけで唐突に、…

相手の意見を否定することは自説の補強にはならない

いつも巡回させてもらっているブログの1つ、そこでは少しややこしい国際問題を取り上げていることからコメント欄が同意もしくは反論でとても賑わっています。 ほとんどのコメント投稿者は議論の作法を心得ているため、互いの意見を積み上げてより優れた見解…

人の意見を借用すると不平不満が湧いてくる

「なーなー、マイナンバーカードと保険証の一体化ってニュース、どう思う?」 「まだヤフコメを見てないので、回答は見てからでいいですか?」 「ふぁ!?」 久しぶりのカルチャーショック。 私はヤフコメの意見を知りたいわけじゃなくて、君の意見を聞きた…

酷い誹謗中傷という言葉への違和感:批判、批難、誹謗中傷の違い

「酷い誹謗中傷」という言葉を見掛ける度、「誹謗中傷はそもそも酷いものでは?」と余計なことを思ってしまいます。 罵言の度合いを意味していることは分かっているのですが、時に罵言の度合いが批判と誹謗中傷を分けるかのような話がなされているような気が…

「どう意見が変わったか」ではなく「どう意見を変えたか」を重視したい

意見の一貫性は時に強く重視されるものです。同じ意見をぶれずに首尾一貫して続けることはその意見や発信者の説得力に繋がります。 だからこそ何かしらを発信する人は、過去の発言が現在と整合が取れており変化していないことが良いとされます。 ただ難しい…

「何を言ったか」のためにも「誰が言ったか」「どう言ったか」は重要

「何を言ったか」「誰が言ったか」「どう言ったか」のどれに重点を置くべきかが人々の間で話題になることがあります。 単純な事実関係に関する弁論であれば話の中身である「何を言ったか」を重視すべき、のはずですが、そうは問屋が卸さないのが人の世という…

意見と主張の違い:エビデンスに基づかなければならない時と、そうではない時と、どちらでもない時

今や広く使われるようになった外来語であるエビデンス。 「証拠」や「根拠」と和訳されていますが、元の英単語evidenceの意味からしても Facts or observations presented in support of an assertion ある主張を裏付けるために提示された事実または観察 で…

コミュニティ区分の不存在:なぜ政治経済の話題は揉めやすいのか

思想信条の自由がある社会においては誰もが違う考えを持っているのが普通です。それが個人的な範囲のものであれば「私はこう考えます」で終わりですが、人は時に政治経済などでの問題の解決、もしくは心情的な問題の解決を目的として自身の意見への共感や賛…

たとえ話の欠点と効用

私は物事を説明する際に『たとえ話』を多用します。本日はそのたとえ話に関する所見を述べていきます。 たとえ話の欠点 たとえ話は結局のところたとえでしかなく、本質的な理解から遠のいてしまうことや意図を誤るといった欠点が間違いなくあります。それは…

マスコミ批判で気を付けること

インターネット上では今も昔も報道機関(マスコミ)への批判が活発に行われています。これは日本に限らず諸外国でも同様です。いえ、むしろ日本よりも海外のほうがマスコミへの批判は強いと言えるかもしれません。 社会学者が国際プロジェクトとして行っている…

討論や言い争いは社会問題を顕在化するために必要

先日の記事で社会問題の解決には討論ではなく議論が必要だという話をしました。 では討論は不要かと言えばもちろんそうではなく、討論が必要な場面も存在します。今回はお行儀の良い討論(ディベート)に限らずインターネットや紙面上での殴り合いのような言い…

インターネット上で議論はできるか?

『議論なんて結局は殴り合いだ』 という意見を先日見かけたため、これはどうしたものかとここ数日ほど考えています。インターネット上で議論はできるのでしょうか?この疑問自体も各所で語られ尽くしているような気がしますが、ちょっと思考を整理してみたい…

言葉を探す

誰しも分かっていることですが、心と体は相互作用を持っています。心が辛い時は体も調子が出ませんし、体に不調があれば心も弱ります。体が疲れていたり心に余裕が無ければ寛容の精神が損なわれ、他者へ攻撃的になることもあるでしょう。 他者はともかく自ら…

違う意見を述べることと意見を否定することは違うという感覚

この駄ブログでは私の大したことない見解を脈絡なくつらつらと書き連ねています。その際はなるべく言葉にトゲが無いよう、そして誰かや何かを強く否定しないよう気を付けて書いているつもりです。時に不適切な言葉遣い、荒い表現を用いてしまうことがあるか…

理性と感情は対立するのか~理性的と感情的の差異

この駄ブログで時々テーマとしている理性と感情、対立的に取り上げることが多いのですが実際のところこれはどのような関連性を持つのでしょう?今回はその点について考察してみます。 まずもって理性と感情を定義することは難しいのですが、何かを語るのであ…