ポジショントークと中道的視座を見分けることは難しいものの。
方法論の類似性
中道の視点で物事を捉えるためには必然的に両極端の見解を天秤へ載せる必要があります。
特に中道的思考で分かりやすいパターンとしては、「世間ではこのような見解が多い」が「反対側にはこういった意見もある・別の側面もある」、そういった見解を補足することです。どう考えても妥当な見解が一方にあったとしても、それに限定せず他方の見解をも拾ってきて検証することが中道の視点を持つための基本となります。
しかしながら、このような中道的視座、すなわち両論併記的方法は必ずしも世間一般の理解を得られるものではありません。世の中にはポジショントークを駆使する人が多数おり、見かけ上は同様の論法を用いるためです。
「世間では見解Aが多い」が「反対側には見解Bもある」はまさにポジショントークでよく悪用される論法です。『誤った等価関係』と呼ばれる詭弁の一種として、実際の根拠や妥当性が99:1でも並べれば見解Bに意味があるように見せられることから、陰謀論者や非主流派の見解Bを支持する人が頻繁に用います。
ポジショントークと中道的視座の見分け方は実のところかなり難しいです。
というよりも方法としては同一であり、見分けることはまずできません。
例えば私は自身の文章中で意識的に「私はこう思う」「私はこう考える」を使っており、最終的な個人の見解は見解を直接流用せずに別個で述べます。ただ、その結論は中道的視座によって私が辿り着いた見解ですが、それが多面的な見解の紹介を装ったポジショントークではないと明確に識別できる境目は存在しないでしょう。
そのような疑いを避けるためにも見解Aを支持するならば見解Aのみを紹介すればいい、そう思われる人もいるでしょうし、それはたしかに明確ではありますが、それはそれで不利な情報を隠すポジショントークの一種になりかねませんし、そこには中道的視座、反証的思考が無いことからあまり私の好みではありません。
科学的であるからと両論を記述する行為はどうしてもポジショントークの疑いを拭い去ることができないため、悩みどころです。
中道的視座の効用
そこまでして中道的視座を求める理由は、単純にそれが効率的だと考えているためです。
極論気味ではありますが、「自分にとって気に食わない対立意見」が存在する場合、それを無視して「自分にとって好ましい意見」だけを採用するのは最適な道ではありません。「自分にとって気に食わない対立意見」を撃滅するためにはむしろそれを深く理解する必要があります。
「自分にとって気に食わない対立意見」をあえて熟知し、細かく分解し、それに賛同する人々が何をもってそれに賛同しているかを理解してその賛同理由までも包括する意見を構築することができれば、「自分にとって気に食わない対立意見」を完膚なきまでに粉砕することができます。対立相手を打ちのめすのではなく、対立意見が対立することの意味をも消し去って取り込み大きな賛同を集める、そういった発想のためには両論を理解する中道的視座が不可欠です。
要するに中道とは弁証法のジンテーゼです。ある主張(テーゼ)とそれに矛盾する主張(アンチテーゼ)を合わせて、どちらの主張も切り捨てずに、より高いレベルの結論(ジンテーゼ)へと導く。それこそが中道の価値だと私は考えます。
例えば私は最近アメリカの保守派、共和党サイドの見解を取り上げました。
これは「世間一般はこうだがアメリカの保守派の言い分はこうだからそれを理解して融通してあげよう」という意味ではなく、むしろ「このような言い分に対してどうすればそれを通さずにこちらの言い分を上手く馴染ませることができるか」が主題です。相手が重要だと思っている焦点さえ押さえることができれば、それ以外はこちらの都合を軋轢無しに押し通すことができます。
要するに自論を通しやすくするためには逆説的に相手を理解したほうが早い、そういった思考です。戦略のパラドキシカル・ロジックからしても妥当なやり方だと言えます。
このような思考のためには相手の言い分を聞いて共感無しに理解する必要があります。
そしてそれこそがまさに『話し合い』です。
厳しい話ですが、「自分にとって気に食わない対立意見」から耳を塞ぐ行為は『話し合い』の拒絶に他なりません。『話し合い』を是とする人は、どれだけ理解が困難な偏見を相手にしようとも、どうにも気に食わない異論であろうとも、拒絶せず聞き取りを行う姿勢を維持しなければならない茨の道、それこそが『話し合い』であることを熟知する必要があります。
結言
ポジショントークと誤認されるリスクはもうある程度織り込み済みですので甘んじて受け入れてはいるのですが、それはそれとして中道的視座を持つことの合理性は喧伝していきたいと思います。
少なくとも話し合いを好むのであれば、相手の言い分を端から聞き入れずに無視することがある種のイジメや暴力であることを自覚的に理解し、理解し難い妄言であろうともまずは耳を塞がずに聞き入れることが必要です。中道的視座を持つことはその一助となります。