忘れん坊の外部記憶域

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色眼鏡はほどほどに:誰が言ったかどうかへの過信

 本当に時々ですが、誰かの意見表明に対して「中立を装っている風で気に入らない、自らの立ち位置を明確にすべきだ」とする見解を見かけることがあります。

 気持ちは分かりますがその色眼鏡は黄色信号だと考えますので、そう考える理由を整理していきます。

 

そのサングラスでは明るくならない

 そもそも私自身が立ち位置を明確に定めず最善を求めることを良しとする中道で中観の思想を持っているため、中立的な意見には全く忌避感を感じません。むしろ自らの立ち位置によって選択的に意見を選ぶことを否定的に捉えています。

 

 とはいえ他者の立ち位置を明確にしたい気持ちは理解できます。

 意見の判断を「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」に依拠することを好む人は一定比率いるものです。それは度が過ぎれば権威主義的態度になりかねないものですが、適度であれば情報の取捨選択基準として合理的だと言えます。どこの馬の骨かも分からない人の発言よりはポジションも実績も明確な人の発言に重きを置くのは当然であり、よって意見を述べる際のポジションを重視すること自体は現実的な選択です。

 人によっては中立に見せかけて巧妙に片側を擁護するような言説を弄する人もいます。気付けない場合はポジショントークに騙される危険もありますので、中立を装った意見を警戒するのは自然なことです。

 また話し合いを議論(ディスカッション)ではなく討論(ディベート)だと捉えている人は旗幟鮮明であることを好むものです。立ち位置を明確にすることこそが討論の入口であり、そこを曖昧にすることは不誠実だと考える人はいます。

 

 これらの考えは個人の嗜好ですので自由です。ただ、過度に立ち位置を気にし過ぎることは毒になりかねないことにも留意が必要です。

 過度に立ち位置を明確にしていない意見は聞き入れない人は、多くの場合で立ち位置を明確にしても聞き入れるわけではありません。

 その理由は単純で、中立という立ち位置を認めていないためです。本当に立ち位置が明確であることを望んでいるのであれば"中立"という立ち位置だって納得するものです。ある意味で中立だとするその立ち位置は明確なのですから。

 そうせずに中立を認めないのは、実のところ立ち位置が明確ではないことを気にしているのではなく、自分と同じ側に立っているかどうかを気にしているだけです。中立だから否定するのではなく同じ側に立っていないから否定している状態に過ぎず、たとえ旗幟鮮明に立ち位置を明確にしたとしてもそれが自身と逆側であれば相手方の意見を封殺しようとするものです。

 

 つまるところ簡単な話で、中立的な意見を受け入れられない人は中立そのものを問題視しているように見えて、実際は自らの党派性が過剰に先鋭化していて同意や賛同しか聞き入れられなくなっている状態に陥っている危険があります。

 それはとても黄色信号です。話し合いとは互いに話し合うことが必要であり、相手の言い分を一切聞き入れないのは話し合いの拒絶に他なりません。話し合いが実施できなければ闘技的な言論や誹謗中傷、さらに悪化すれば物理的暴力を伴うような闘争に至るしかなくなります。

 その先にあるのは明るい未来ではないでしょう。

 

結言

 ポジショントークによる詐術を警戒する上でも相手の立ち位置を気にして色眼鏡で見ること自体は否定しません。世に善人ばかりであれば世界は実にシンプルなものですが、実際はそうではない以上警戒は必要です。

 ただ、それが過剰になってポジションに囚われ過ぎることも危険です。それは自ら話し合いの道を閉ざす悪手に他なりませんので。