忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

話し合いとは努力が必要であり、本質的に難しく、大抵の場合で苦しいもの

 物事において「話し合いが大切だ、話し合いをしよう」とする方向性は至極一般的かと思います。多くの人は暴力よりも話し合いによる物事の解決を望みますし、それは実際に良いことです。暴力に頼らない問題解決は文明社会にとって望ましい発展の方向性だと言えます。

 

 ただ、あまりにも話し合いが簡単に扱われていて、話し合いの持つ「苦しみ」についてはあまり認識がされていないような気もします。

 当ブログでは話し合いの難しさについて幾度か語ってきましたが、この手の話は繰り返し語ることに意味があると思いますので、また少し警句的なものを書いていきます。

 

意見と人格を絶対的に切り分ける

 意見は意見であり、人格とは絶対的に別物です。話し合いを行う際にはこの点を重々承知しておく必要があります。

 これらを上手く切り分けられない場合、意見の否定を人格の否定と誤認して他者からの意見の否定を受け止められず頑なに自らの意見へ執着するようになってしまったり、或いは他者の意見を否定する際に他者の人格までも否定する振る舞いをしてしまうことが起こり得ます。

 そうなっては話し合いは成立せず、その先にあるのは争いです。カントが看破したように人格とは絶対的価値を持っているものであり、その否定は究極の侮蔑に他なりません。人格否定は相対的上下では治まらない以上、どちらか或いは双方の消滅へ至る闘争にまで発展し得ることは必然です。そうなっては話し合いなんて成立しようがないことから、人々が話し合いの土俵を保つためには意見と人格を切り分ける能力が参加者の双方に必要となります。

 

 もちろん「意見とは人格が滲み出るもの、人格から発露するもの」と感覚的に捉えることは必ずしも間違いではないかもしれません。

 ただ、人は自らの人格のみならず立場・目的・必要性に応じて多様な意見を発信します。誰だって自らの人格が求めるまま好き勝手思う通りのことを口にできるわけではなく、時には自らの意にそぐわない意見を発信しなければならないような状況があり得ることを思えば理解は容易でしょう。

 よって同一視することは論理的に誤っており、意見と人格の峻別は絶対に必要です。

 

好まぬ意見を聞く努力

 話し合いはその前提条件として「異なる意見を持った人々」によって行われます。同じ意見の人同士であればそもそも話し合いは発生しないのだから、これは必然です。

 

 とはいえ、人は自分と違う意見をなかなか好めないのが現実です。

 社会的動物である私たちは同じ意見の集団へ所属することに安堵を覚えます。異なる意見を持った相手は本能的に敵です。異なる意見を愉快だと思えるほど達観した人は稀でしょう。

 よってここでも意見と人格を峻別する努力が不可欠です。話し合いを成立させるためには相手を敵だと認識する本能と決別しなければなりません。意見の是非は自らの人格が嗜好する好悪とは別のものであり、たとえその意見を本能的に嫌悪したとしてもそれを発信した人格にまで嫌悪が波及しないよう理性と教養によって押さえつける必要があります。

 

 同時に理解と共感は別物であることにも留意が必要となります。

 私たちは話し合いのことを「互いに同じ感情を持つための行為」、「互いの心を分かり合い同じ方向を向くための共同作業」、つまりは共感を引き起こすためのトリガーだと考えがちですが、話し合いとはそういうものではありません。

 好悪と共感は感情に属する作用であり、嫌悪の対象である異なる意見に共感することは誰にもできません。よってこの考え方では「異なる意見を持った人々」を前提とする話し合いが成立しなくなってしまいます。

 話し合いとはそういった感情の作用をあえて切り離し、感情を伴わない理性的な部分で自らの思考を言語化し、論理に基づいて互いを理解し合うために行われるものです。理性的な理解と感情的な共感はまったくもって別物だとした認識を持ち、「共感できないから理解できない」状態を脱し、理性を働かせて「共感はできないが言っていることは理解できる」状態へと遷移できるよう自らの感情を抑え込む必要があります。

 

結言

 話し合いを成立させるためには様々な”心得”や”お作法”があり、それらプロトコルを双方が守った上でお互いにとって愉快ではない他者の見解を”理解”しなければなりません。話し合いとは意見と人格、そして理性と感情を適切に切り離して初めて成立します。

 つまり話し合いとは努力が必要であり、本質的に難しく、大抵の場合で苦しいものです。

 しかしそれでも暴力よりはマシだと人々が希求しているからこそ話し合いは暴力よりも上位に位置しているのであり、話し合いを成立させることに尽力するだけの価値と意味がそこにはあると考えます。

 

 話し合いをしたいと思う人は、時に不快とすら感じられるであろう自らとまったく異なる意見を率先して理解しにいく姿勢が必要です。

 もちろん誰にだって「何言ってんだこいつ、まったく分からねえ」と思える意見がこの世には存在しています。しかしだからといってそのような意見に対して話し合いにならないと諦めること、それこそが話し合いの拒絶に他なりません。