忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他者の好みを直球で否定する人の心理を理解したい

 

 直球で否定する人を否定したいわけではないことを上手く言葉で表現するのは難しい。

 

個人的に、理解が難しい心理の上位ランカー

 世の中には他者が好むものをストレートに否定する人がいます。

 もちろん人それぞれ嫌いなものはあります、それは当たり前のことです。

 ただ、それをいちいち口に出す理由を掴みかねています

 何かしらを楽しんでいるや何かしらを好んでいる人に対して自分はそれが嫌いだと告げたり、わざわざSNSで自身の嫌いなものを発表する、その仕草がどうにも私の理解の範疇外にあると思っています。

 

 私はそもそもあまり好き嫌いをしない性格ですが、一応程度の心掛けとして「嫌い」をなるべく公言しないようにしています。このブログでも注意しており、あえて強く公言したものはせいぜい「袖」と「無駄な会議」くらいでしょう。

 

 このブログでは様々な事柄に対して「私の好みではない」と評する表現が頻出しますが、「嫌い」を用いないことでNot for meではあるがそれを好きな人を否定したいわけではないことを主張しているつもりです。私の好みではなくとも他者の好みではあるかもしれませんので、他者の好みを強く否定する気はありません。

 

 そんな考えを持っているため、あえて強く他者の好みを否定する言葉をストレートに提示する人の気持ちを理解したいと思っています。

 それは無意識的なのか意識的なのか、意味を込めているのかいないのか、目的があるのかないのか、などなど今のところはさっぱりです。

 

人間心理をコンピュータに聞く面白み

 とはいえ自身の言動を言語化して公開している人は少数派であり、他者の好みを直球で否定することの心理状態を文章で見つけることは難しいでしょう。

 そんなわけで、あえて生成AIに聞いてみました。

 以下がその回答です。

【理解の欠如】

自分がその選択や好みについての知識や経験が不足しているため、他人がそれを好きになる理由が理解できないことがあります。この場合、単純に自分の知識や経験の範囲を超えたものを評価できないという心理があります。

【共感の不足】

他人の感情や価値観に共感する力が弱い場合、他人の好みや選択に対して理解が難しくなります。共感の不足は、他者の視点に立つことができないため、「それの何が良いのか分からない」と感じる原因となります。

【価値観の違い】

自分と他者の価値観や優先順位が大きく異なる場合、その選択や好みが理解できないことがあります。自分の価値観を基準にして物事を判断するため、他人の選択が自分には納得できないという心理です。

【自己防衛】

他人の選択や好みが自分の価値観や選択を脅かすと感じた場合、自分を守るためにそれを否定することがあります。「それの何が良いのか分からない」と言うことで、自分の選択や好みを正当化し、自尊心を保とうとする心理です。

【社会的圧力】

周囲の影響や社会的な圧力によって、特定の選択や好みが受け入れられない場合があります。この場合、「それの何が良いのか分からない」と言うことで、社会的な規範や期待に従おうとする心理が働いています。

 

 ふむふむ。

 【理解の欠如】や【自己防衛】は理解できます。未知の事柄に対して好奇心ではなく恐怖を覚える質の人はいますし、恐怖の対象に対して防御や逃走ではなく攻撃を選択する人もいます。それらが合わさった場合、知識や経験の不足が攻撃的な言動へと変ずることがあり得るのでしょう。

 【共感の不足】も納得です。人には愛着の感情があり、自らが好むものを否定されると不快を感じます。その不快感への配慮をしないことを共感の不足と定義するのは妥当だと思われます。

 【価値観の違い】は少し難しいところです。異なる価値観を受容することが難しいのは自然なことですが、かといって他者の異なる価値観を攻撃的に否定する必要はないはずです。その攻撃性の背景には自己防衛の気持ちが少なからず存在していそうです。

 或いは反転的なのかもしれません。自らの感性とは異なる他者の「好き」を自らの価値観への攻撃だと認識してしまうがゆえに防御反応として攻撃的な言葉を発してしまう、自らが攻撃的な自覚は無くむしろ被害を受けた結果の防御に他ならないと思っている、そうなのだとすればどうにも解決が難しい話です。

 【社会的圧力】はシンプルに「酸っぱい葡萄」で、これは納得です。

 

 もちろんこれらが全てではないものの、なんとなくある程度は理解を言語化できたような気がします。

 

結言

 この辺りを深掘りしていくと、言語コミュニケーションに対する認識が実は人それぞれ大きく違うことが実感できるような気がします。

 私は言語コミュニケーションを構築と融和のために用いることを好みますが、自己主張のための道具として用いる人もいれば、そもそも何らかの目的を必要としない人もいるでしょう。

 それぞれの参加者が同じ方向を向いていればコミュニケーションの失敗は発生しにくいでしょうが、そもそも言語コミュニケーションに対する意味が人それぞれ異なる、ここに人々のコミュニケーションが頻繁にすれ違う根底があり、そしてそれは解決困難なものだと思う次第です。

 

 

余談

 そもそも根本的に、私は他者の攻撃性を理解できていない節があります。

 例えば「キモい」みたいな言葉を代表に、自身の不快などを理由に他者へ加害性を伴った言動を行うことの正当性をどう自己の中で整合しているのかがさっぱり理解できていません。

 他者に非があると自身が認定してその非によって被害を受けたと自身が認定して被害を受けたのだから攻撃をしても許されると自身が認定している、そこまで客観性なく主観的に認識する思考がは客観性を重視する世界で生きてきたせいかどうにも理解の埒外にあります。

 客観ではなく主観を重視する発想はフェイクニュースやオルタナティブ・ファクトを生み出すだけであり、法ではなく自己認識に依存する社会はただの近代以前への先祖返りではなかろうかと思っている次第です。