選挙や政変があると世の中はざわつきます。
失望・怒り・諦めの感情が飛び交う中で、ふと思ったのですが、私は選挙結果に対してあまり悲観的になったことがありません。
もちろん同意し難い結果もありますし、理解し難い選択もあります。
ただ、それが「悪」や「問題」や「誤り」とは感じず、粛々と受け入れるべきだと捉えています。
それがどのような心理状態なのか、少し自己分析してみましょう。
これはどちらかと言えば政治に十分な関心を持っている無党派層の一人としての分析です。政治に無関心だから気にしていない、といった訳ではないことを先に言い訳しておきます。
世界はアナログのグラデーションである
恐らくですが、私の中には幼少期からの教育に基づくリベラル的な多様性の価値がかなり深く根付いているように思えます。
世の中には同意できる意見もあれば理解できない意見もあり、それでいい、そうした考え方です。
自分の価値観が肯定されるだけでなく否定されることもあるでしょう。
世の中が進歩することもあれば退行することもあるでしょう。
それでいい、それもまた多様性における一形態である、そうした発想です。
基本的には「違い」を善悪や正誤で捉えず、ただの「違い」として受け止めることが自然体であり、選挙結果も同様です。
むしろ異なる思想や異なる意見を善悪や正誤の概念で捉えることを忌避すらしています。何故ならば、悪や誤りは排除すべきとした道徳心を保ったまま多様性を維持するには、自らの持つ善悪や正誤の物差しを用いないことが必要になるためです。
世の中は白黒で区分できるものではなくグラデーションで満ちているものであり、悪を我慢するのではなくそもそも悪だと捉えないこと、そうした発想こそが多様性に資すると考えます。
理想的政治と現実的政治
政治を「理想の実現」や「正義の勝利」を目的とした手段として捉えていないことも理由の一つかと考えます。政治や学生運動に理想を持つことなく育ってきた世代であるためか、或いは私が現実主義者であるためか、私は政治を「妥協と調整の場」として捉えています。
そのため理想と現実のギャップを感じることもなく一喜一憂をしないのですが、これは政治の効力を限定的だと捉えていて、逆説的に政治に対して悲観的だと言えるのかもしれません。
自己と社会の線引き
全体主義でも利己主義でもない個人主義の価値観で育ってきたことも大きいと思われます。私はそこそこに強固な個人主義者です。
よって個人と社会は別のものであり、あまり同一視することはありません。自分と異なる考えが選挙で選ばれたとしても自分の否定とは考えず、自分は変わらず自分のままです。
政治での自己効力感
政治的な自己効力感、いわゆる「自分の一票が社会を変える」とした感覚はあまり強くありません。そのため、長期的な変革の流れにはいますが短期的な選挙結果に対しては一喜一憂しなくてもいいと思っています。
もちろん自分の一票を無価値と思っているわけではありませんが、社会変革の担い手として自分を想像するほどではありせん。
少し極論ですが自己を過大評価することは他者の価値や票を相対的に低く見積もっているに等しいと思っており、それは多様性的ではないとすら考えます。
結言
こんなところでしょうか。
このような考えもあるのだなとした気付きになれば幸いです。