私の文章が読みにくい原因の数多ある一つに説明不足があると思っています。
思っているのになぜ改善しないのかは、今世紀最小の謎です。
読みにくい原因は他にもいっぱいありますが、それらは捨て置いて今回は説明不足へフォーカスしましょう。
説明不足の例示
私の説明不足は知識の呪いバイアスや社会性の欠如が主たる原因でしょう。
「唐突に”知識の呪い”と言ってもきっと通じるだろう」とした、良く言えば他者への信頼、悪く言えば妄信・傲慢・怠惰です。
言葉の選択自体も不親切なうえ、表現も省略をしがちです。
一つ例示してみましょう。
むしろ異なる思想や異なる意見を善悪や正誤の概念で捉えることを忌避すらしています。何故ならば、悪や誤りは排除すべきとした道徳心を保ったまま多様性を維持するには、自らの持つ善悪や正誤の物差しを用いないことが必要になるためです。
なんというか、とても分かりやすく説明不足です。
要するにこの文章では次のような主張をしています。
- 悪や誤りはちゃんと対策したり処罰しないといけないよね。それは社会に必要なことだし、道徳的なことだから同意するよ。
- でも皆いろんな意見を持っているものだから、「私が思う」悪や誤りは絶対的に正しいとは限らないし、他の人が考えることも正しいとは限らないよね。
- そんな中で「正しさ」とはそもそもどう決めればいいのかというと、最終的には皆でそれが正しいと決めたことが正しさになるんじゃないかな。その集合が法で、だから法は正義なんだよね。
- 法で決めた正しさの範囲をちゃんと守っていれば、異なる思想や意見があっても許容できるし多様性を確保できるよね。
- だから「私の思う」善悪や正誤の物差し、個人の勝手な基準を使って物事を判断することは戒めないと宜しくないよね。ちゃんと皆で考えた善悪や正誤の基準、つまり法で決めないと。
- そうした姿勢は大変だし、自分の拘りを多少捨てないといけないけど、そうやってちょっと我慢する姿勢が真に道徳的だと言えるんじゃないかな。
- もちろんそういった道徳や公平性を目指すことを万人に求めるわけじゃないよ。私は好みの都合でそうしているけど、そうしなくたってそれは思想が異なるだけであって、別に間違いでも悪いことでもないんだから。
長ったらしいので省略したいと思う気持ちと、省略し過ぎているのではないかと思う気持ちが半々です。
嘘です。前者が圧倒的なので省略しています。
その点、ちゃんとした文筆家の書いた文章は凄いと思います。
省略せず、しかしちゃんと適度な分量で言い分を整理してまとめているのですから。
私もそういった努力をすべきかもしれませんが、まあ、その、ねえ?(説明の省略)
結言
ちなみに冒頭の「知識の呪い」は専門家の呪いとも呼ばれる認知バイアスで、修正することが難しいとされています。私もがっつりバイアスに目を曇らされているような気がしますが、これは仕方がないことなのです、と開き直ってみたりして。
余談
近頃はブログ記事を書いた後に生成AIへぶち込んで「文章をチェックして、内容に反論をして」と依頼して抜け漏れをチェックしているのですが、変な学習をしてしまったせいか、高頻度で「それはウィトゲンシュタイン的視点で見れば~」とウィトゲンシュタインを引用してきます。原因は謎です。哲学っぽいことばかり聞いていたせいでしょうか。
一応、今回のテーマはある意味でウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』的な話ではあります。
ただ、別にピンポイントで生成AIが正しい類推をした訳ではなく、「壊れた時計でも一日に二度正しい時刻を示す」だけかと思います。
ちなみに、ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』は説明するのが大変なので、もう説明不足でいいかなという気分です。