忘れん坊の外部記憶域

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熊害から考える社会問題の捉え方

 

 昨今、熊害のニュースや議論が各所で飛び交っています。

 それに関連して、社会問題全般へ敷衍した話をしてみましょう。

 

社会問題の定型

 熊害に対する言及が多いのは、もちろん「人命へ直接的に関わる大問題」であることが主因だと思います。

 ただ他の要因として、現代の様々な社会問題に通じる構図を持っており、そのために個々の社会問題で論陣を張っている思想家やインフルエンサーの参入が容易なためではないか、などと愚考しています。

 

 若干の極論ですが、現代の社会問題の一大テーマは文化の共生です。

 文化と言うとややこしいかもしれませんので概念や価値観と言い換えても問題ないでしょう。

 グローバリゼーションの進行に伴い「多文化共生」自体が現代のメイントピックではありますが、それ以外にもネットなどで大バトルを繰り広げているテーマ、例えば政治・男女論・国家・人種・性別・環境なども、基本的には全て文化の共生の構図を持っていると言えます。

 言うなれば、どれもこれも「既存の文化圏」と「新しい文化圏」間での境界の摩擦です。新しい文化・概念・価値観が移動してきたり参入したりする度に既存のものと衝突を起こすのは必然的な現象であり、この対立構造は言うなれば「保守」と「革新」の対立として古代から普遍的なものとなります。

 

 かつて、このような対立は闘争として規定されて、酷い場合には戦争、そうでなくても暴力や排除を伴って『対立勢力の尽滅』を目指すことが対立解消の主眼でした。

 もちろん今でもそのように考えて対立文化を消し去ろうと頑張っている方もいらっしゃいますが、現代では人権意識の法制化と発信手段の拡大により対立言論の発信源を殲滅することができなくなったため、滅ぼすのではなく異なる文化として共生していく必要が出てきました。消し去れないのであれば住み分けて生きていくしかないのは必然です。

 

 「既存の文化圏」と「新しい文化圏」は、例を挙げれば「従来の日本社会」と「移民」、或いは「従来の性別的価値観」と「新興のジェンダー概念」などが分かりやすい例でしょうか。

 熊害も同様に、「既存の文化圏」である人間社会と、環境の変化によって移動してきた「新しい文化圏」である自然との境界における摩擦の構造を持っています。

 

 誤解しないで欲しいのですが、新しい文化圏を"熊的"なものだと批判したいわけではなく、形式的な構図が同じというだけです。この"熊的"な構図を形式的に考えることによって、他の社会問題についても見方や落としどころを考えられるのではないか、そう考えています。

 よって、これから熊害をモチーフに、「既存の文化圏」を"人間社会"、「新しい文化圏」を"自然"として文化圏の摩擦をどう捉えるべきか思索してみます。

 他の社会問題にも敷衍できるよう話を展開していきますが、安易な代入はせず、見方だけを参考としてみてください。

 

静的イメージの誤解と動的プロセス

 まず初めに、文化圏同士の共生はどのようなものかを考えましょう。

 

 基本的に異なる文化圏同士は同じ場所に住むことはできません。地図的座標、或いは心理的距離として。

 何故ならば、それができるのであればそもそも同じ文化圏となるのであり、それができないからこそ異なる文化圏として境界を作って住み分けているためです。

 境界は無知ゆえの区分ではなく、同じになれなかった文化間が無用な衝突を避けるための「生活の知恵」とまで言っていいかと思います。

 また、一つの文化圏へ習合しようとすることも適切ではありません。それはただの文化的な侵略であったり文化の否定に他ならないためです。

 よって私たちは異なる文化圏同士で境界を保ちつつ住み分けることが妥当な選択となります。

 人間社会と自然も同様です。人為によって制御されていないものを自然(nature)と呼ぶ以上これらは異なる文化圏であり、里山のように人為で人工化せず、自然を残すために人間社会を消し去るのでもなく、互いに文化圏を保つためには境界を作って住み分ける他ないでしょう。

 その住み分けこそが共生です。

 

 そして文化圏は基本的に膨張します

 様々な圏がひしめき合っている世界において膨張しない圏は他に圧し潰されて消えていき、世界に残ることができるのは膨張する圏のみとなるためです。

 それぞれが膨張し合って何処かしらで均衡が取れているからこそ境界の維持と住み分けが可能となります。

 つまり共生とは、静的イメージとして境界が存在するのではなく動的プロセスとして境界を構築するものだとした認識が必要です。何もしなければ境界がピタッと決まるなんてことはなく、むしろ何もしなければ境界は押し合いへし合いを経て制御不能となります。境界を固定的に維持するには継続的な行動が不可欠です。

 圏の均衡は、互いに止まっている状態ではなく、互いに押し合っている状態で生まれます。

 

 よって人間社会が膨張し過ぎている時には手を緩める必要がありますし、逆に自然が浸食してきている時には押し返す必要があります。そういった動的プロセスは、共生を肯定するのであれば、善悪や正誤で解釈する必要もない必須の行動です。

 もちろんそういった均衡と共生を捨てて「全ての自然を破壊すべきだ」とか「人間社会を滅ぼすべきだ」と考えるのであれば話は別ですが。それは社会学的なテーマではなく、道徳や倫理の分野となります。

 

社会問題における共感の限界

 共生の必要性と共生のイメージについて語ってきました。

 次はなぜ人間社会と自然の共生が難しいかを考えましょう。

 

 最大の原因は共感の持つ限界にあると私は考えます。

 もちろん共感それ自体は善行を生み出し得る特性ではありますが、必ずしも万能ではありません。

 実際、熊害において大きく議論となっているのは「人命を優先すべきか」「熊や自然を守るべきか」といった対立構造であり、これは共感の限界の典型例です。

 

 共感にはスポットライト性や選別性と呼ばれる特性、もっと露悪的に言えば差別性があります

 共感は「何に共感するかを無意識に選び、それ以外を排除する」行為です。人は加害者と被害者へ同時に共感できませんし、顔も名前も知らない誰かや集団へ同時に共感することもできません。

 道行く知らない人に深く共感することはできないでしょう。話をすれば共感が生じるかもしれませんが、それが2人、3人、10人と増えていけば同時に共感できない限界へすぐに至ることは自明です。

 私たちはニュースで報道された名前と顔の分かる可哀想な1人の子どもには簡単に共感できますが、名前も顔も知らない遥か遠くに現実として存在する無数の可哀想な子ども達へ個別の共感を持つことは難しくあります。

 すなわち、共感には数的限界と数的誤認があります。

 

 熊害についても同様です。

 熊に襲われる被害者への共感と熊への共感も同時には両立し得ません。人間社会へ共感する人は熊を駆除すべきだと考えますし、自然へ共感する人は熊の保護を考えます。

 また、苦しむ動物に対して生じる「共感バイアス」や、自然は良いものとする「自然主義的誤謬」、被害地域との距離が影響する「距離の心理効果」やもっとシンプルな「同胞意識」なども共感認知に影響を与えて道徳的選好を偏らせて、結果的に不公平な共感配分を生み出します。

 

 これはとても単純な話で、共感によって社会問題を認識しているから発生する対立です。社会問題のようなマクロな事象を考えるには、共感では荷が勝ち過ぎます

 先に述べたように、共生のための境界維持は双方の膨張に均衡を取ることが必要であり、そのためには共感による片一方の押し引きではなく、もっと合理的で倫理的な、双方の状況を斟酌した理性的なバランス調整が必要です。

 要するに、どちらかを被害者として捉えて共感によって感情移入する自然な気持ちの働き、それを理性で抑え込んでバランスを取ることでしか適切な境界を構築して共生を保つことはできません。

 もちろんそのバランスのとり方、手段については様々ありますので議論すればよいでしょう。しかし少なくともそこに共感的認知は不要ですし、むしろ遠ざけなければならないものです。

 

結言

 共生の捉え方と共感の限界は、熊害に限らず現代の社会問題を捉える上で非常に役立つ視点だと考えます。

 異文化の共生は避けられず、境界は維持する努力が必要であり、そのためには共感ではなく理性で判断をしなければならない。

 大変なことですが、社会問題を解決するためには避けられない努力です。

 

 とはいえ、熊害に対して私たちの社会が理性的な解決を模索することができたとなれば、「自然」とは違って対話が可能な「異なる文化圏」の摩擦を解決することはもう少し簡単になる、かもしれません。

 あるいは、「自然は合理に従うが人間はそうではない」ことが露呈するだけかもしれませんが、まあ、そこはポジティブに考えたいところです。