忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「感情輸入」の誤字から考える余計な思索

 極めて稀に見かける誤字の「感情輸入」。

 もちろん正しい日本語は「感情移入」ですが、意外と考察の余地があるのではないかと思うので余計なことを考えてみます。

 

アクティブ / パッシブ

 感情はアクティブ(能動的)にもパッシブ(受動的)にも起こります。

 例えば「困難な物事を前にして自らを奮い立たせるための高揚」はまさしくアクティブな感情ですし、「不幸な出来事に直面して気落ちするような悲哀」は否応なしに沸き起こってくるパッシブな感情です。

 

 感情をアクティブとパッシブの視点で見ると自身の感情が色々と捉えやすくなるかと思います。多くの感情はパッシブに生じると思われがちですが、よくよく感情の機序を観察してみると自らがアクティブに感情を引き起こしている場合も多々ありますので、実に興味深いものです。

 感情操作に長けていて感情をアクティブに管理することが得意とする人もいれば、パッシブな感情の量が大きく感情に支配されがちな人もいるでしょうし、パッシブな感情があまり生じない鈍感な人もいます。その程度は人それぞれです。

 なんにせよ感情の発生にはアクティブとパッシブの両側面があります。

 

感情移入はアクティブ

 通常、と言っていいものかは不安なところですが、感情移入はアクティブの部類に入ります

 辞書的にも感情移入とは『芸術作品または自然の物象に自己の感情や精神を投射して、その対象に共感し融合する意識作用』であり、能動的に自己の感情や精神を投射する行為とされています。感情を移し入れるから感情移入であり、字面通りに能動的な行動です。自らが積極的に働きかけなければ感情移入は生じません。

 

 そんなアクティブな行動である感情移入の誤字で「感情輸入」と書いてしまう人がいるのはなぜか。

 それはもしかするとパッシブに他者の感情を受け取ることを感情移入と認識しているためなのかもしれません。

 この理屈を説明するため、"自他境界"の概念を援用しましょう。

 「自分と他者は別のものである」認識を意味する概念である"自他境界"が明確な人にとって、他者の感情はアクティブに拾いに行かなければ検出できないものです。なにせ自分と他者は別のものなのですから、自他境界が明確な人はそれが当然と考えます。

 対して自他境界が曖昧な人は自分と他者の感情に線引きをすることが不得手であり、良く言えば共感性が高く、厳しく言えば自我の確立が甘い人です。そのような人は自分と他者の間に明確な線引きがされていないため、パッシブに共感が働き他者の感情を受け取ってしまう傾向を持つでしょう。

 

 つまり、曖昧な自他境界を越えて他者の感情が流れ込んでくる感覚があるからこそ「感情移入」を「感情輸入」と誤字してしまっているのではないか。

 そんな、どうでもいい想像でした。

 

結言

 別に是非や善悪の話ではありませんので、アクティブ/パッシブの程度がどうであろうと自他境界がどうであろうと大した話ではありません。

 まあ、個人的な感想としては、私は自他境界が明確なため「感情のアクティブ比率は高いほうがコントロールしやすい」「パッシブに共感が働くとなると感情の処理が大変そうだ」とは思うのですが、パッシブの比率が高ければそれはそれで親切心や思いやりといった善を発揮しやすそうではありますので、それが当人を摩耗しない範囲であればなにも問題ないかと思います。