先日投稿した『共感』についての記事を書くためにポール・ブルームの『反共感論』を最近読み直したのですが、そういえばなかなか示唆に富んだ言葉の紹介をしているものだと思った部分があったことを思い出しました。
ネットで検索してもこの部分を引用したサイトが数えるほどしか出てこなかったため、せっかくなのでその部分を紹介しつつ個人的な見解を付け加えていこうかと思います。
「感情的な思いやり」と「偉大な思いやり」
哲学者のチャールズ・グッドマンは、仏教の道徳哲学を扱った本のなかで、仏教の教義では、本書でいう共感に該当する「感情的な思いやり(sentimental compassion)」と、私たちが通常思いやりと呼んでいる「偉大な思いやり(great compassion)」を区別すると述べている。彼によれば、前者は菩薩を消耗させるので避けるべきであり、追及する価値があるのは後者である。偉大な思いやりは、より距離を置いた立場をとり控えめで、いつまでも維持することができる。
引用元:ポール・ブルーム『反共感論』
ポール・ブルームは「感情的な思いやり」と「偉大な思いやり」を共感の有無によって区分しています。
これらはどちらも他者に対する温かさや配慮、気遣い、そして他者の福祉を向上させようとする動機に基づくものですが、前者は他者の苦痛や辛さに対して同調し共有する共感の力によって生じるのに対して、後者は共感を用いずに生じる思いやりです。
一言で置き換えるのであれば、感情的な思いやりは「同情心」、偉大な思いやりは「慈悲」と読み替えることが適切かと考えます。
「感情的な思いやり」は菩薩を消耗させる、と表現されているのはなかなか示唆に富んでいるかと思います。
菩薩とは衆生を救うために修行を重ねる人を意味する仏教用語です。
しかしここで言う菩薩は実際に修行を行っている人を狭義的に指しているのではなく、世のため人のために腐心し、苦しむ人に手を差し伸べる美徳を持った広義の意味での人、もしくはそういった心を菩薩と表しているのでしょう。
「感情的な思いやり」は他者の苦痛や辛さへ共感することによってケアを行うものです。それ単体だけを見れば決して悪いものではないのですが、手を差し伸べた先の相手と同程度に苦痛や辛さを伴う行為です。それは持続可能なものではなく、まさしく言葉通りに人々の心の中にある「菩薩の消耗」を伴う自己犠牲的な行為だと言えます。
「偉大な思いやり」は共感を伴わない行為です。
ここで言う”共感を伴わない”とは、感情がないわけでも、相手の感情を理解しないというわけでもありません。「偉大な思いやり」も「感情的な思いやり」と同様に相手の感情を類推しますが、その類推した感情を共有しないだけです。感情の共感が伴わなくとも、相手に対する温かさや配慮、気遣い、そして他者の福祉を向上させようとする感情を伴った行為を行うことはできます。
「偉大な思いやり」の例として、以前『共感』に関して書いた記事で用いた例を引用します。
夜中にお菓子を食べようとする子供を叱るお母さんは子どもの気持ちには共感をしていませんが、そこに思いやりと愛情があることは疑いようがないものです。
お母さんは子どもがお菓子を食べたいと思っている感情を理解していないわけではありません。しかし虫歯や体重増加の回避、将来のための健全な食習慣の維持、そういった子どもの明るい未来と優れた福祉を望んでいるからこそ、共感以外の動機で行動します。共感はなくとも、感情に起因するものです。
結言
「感情的な思いやり」を一切すべきでない、とまでは考えません。
他者が自身の感情を類推し共鳴し共有することによってケアを得られる人が世の中には存在する以上、「感情的な思いやり」が無くなることはありませんし、無くなる必要もありません。
ただ、ケアを受ける側は回復しますがケアをする側は消耗するということは、共感によるケアは厳しい表現に言い換えれば他者の苦痛や辛さを引き受ける行為にほかならず、人の菩薩心には限度があり、また心の消耗は修復が困難なものである以上、「感情的な思いやり」は必ずどこかでケアをする側が燃え尽き症候群や心労による限界に到達してしまいます。
そのため、他者のケアを仕事や日常とする人、例えば精神科医やセラピスト、また共感力が強い人はこの区分を自覚的に考えることが望ましいと思われます。
また、人によっては耳の痛い話をすることになりますが、誰もが可能な範囲で十分ですので、「共感による自らの心のケアを他者へ求める」のは控えられるようになるのがより望ましいかもしれません。
極めて厳しい物言いで申し訳ないのですが、それは自らの回復のために他者に苦痛や辛さを押し付けることに近似するものです。これはあまり持続可能な関係性を構築することができませんので、世の中からなるべく減らしていけたほうがよいと個人的には考えています。