忘れん坊の外部記憶域

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共感の持つ問題とその取り扱い:社会の道徳的指針

 およそ2年ほど毎日ブログを更新して様々なテーマを取り扱ってきましたが、その中でも一番取り扱いが難しいと感じているのが『共感』に関して言及することです。

 今回はその『共感』について、及び腰ながらも正面から言及していきます。

 

共感に関する考え方

 私の共感に関する考え方はアダム・スミスの『道徳感情論』やポール・ブルームの『反共感論』などがベースにあります。必ずしも両者の見解とイコールではありませんが、共感には多くの美点と留意すべき欠点があるとする考えです。

 共感そのものを否定しているのでは決してなく、私たちが日常において行う善行や親切、思いやりや助け合い、そしてそこから生まれる喜びの多くは共感が源泉の一つであり、むしろ日常的な所作においては共感が適切に活用されるべきだと私は信仰しています。

 ただ、共感には社会的な意志決定のための道徳的指針とするには不適切な欠点があります。その欠点を無視してはむしろ共感の価値を損ねる結果になりかねません。それゆえに共感によって社会的な意思決定を行うのは多くの場合で望ましくない、とする考えです。

 ブルームは個人レベルの共感も程度によって弊害、例えば過度の共感による共感的苦痛が存在することなどを本書で述べていますが、今回はミクロとマクロの差異を主題としたいため個人レベルの共感による弊害への言及は控えます。

 

 『反共感論』はここ数年読んだ中でも名著の一つだと思える本でした。大枠としてはダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』で言う「システム1」の弊害が『共感』でも同様に生じることを説明しているような内容だと感じましたし、実際にブルームは後半の章で『ファスト&スロー』に言及されていました。

 本来は書評を書いたほうが分かりやすいのでしょうが、私が書かなくとも他所様が素敵な書評を書いていますのでそちらのリンクを貼らせてもらうことにします。

 

共感の課題

 『反共感論』の著者ポール・ブルームが言うには、共感は親切心や思いやりの源泉の一つとなる感情であるのと同時に、愚かな判断を導き出しかねないものであり道徳的指針にすべきではないものです。

 

しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理的で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。

本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

これは過激な発言ではあるが、見かけほど過激ではない。本書は、よくある奇をてらったサイコパス礼賛書などではない。私が提起する反共感論は、利己的たれ、不道徳的たれと主張するものではない。まったく逆である。つまり、他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいなら、共感なしで済ませたほうがよい結果が得られる、というのが私の主張だ。

引用元:ポール・ブルーム『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』

 

 『反共感論』の「はじめに」から引用した文ですが、もうこの時点で私たちの心には引っ掛かりが生じると思います。

 「共感を否定的に語るとは何事だ、共感は尊ぶべき素晴らしいものであり、善である。それを否定するなんてとんでもない」

 そんな嫌悪や忌避感を大なり小なり感じることでしょう。恐らく共感する力が高い人ほど強く感じることかと思います。

 

 まさしくそのような感情的作用を解きほぐし、異なる視点をもたらすのが『反共感論』です。

 本書は共感そのものや共感の力が強い人を否定している本ではなく、共感を道徳的指針に用いて社会的な意志決定を行うことを否定している本であり、共感自体が持つ留意すべき構造的な課題を提示することが目的です。

 本書は共感の力が強い人にこそぜひ読んでもらいたいのですが、この本は共感の否定から生じる嫌悪や忌避感といった感情の作用を一度切断して虚心坦懐に読み進める必要があり、共感の力が強い人には入口の引っ掛かりが大きすぎてそもそも読み進められないという問題があるように感じます。本書は共感による燃え尽き症候群を防ぐ良い示唆も含まれているため、どうにも少し残念です。

 

 上述にリンクを貼らせてもらった書評でも言及されてはいますが、まずは共感の課題について少し言及していきます。

 

共感のスポットライト的性質

 共感には偏向やバイアスが存在します。

 例えば心理学の用語でいう「身元のわかる犠牲者効果」が代表的で、人は誰だか分からない人の危機よりも誰だか分かっている人の危機に対して、より強く共感が作用する傾向を持ちます。

 世界中全ての人に共感できる人は存在せず、共感には量的な限界があります。まるでスポットライトのように、多数の抽象的な犠牲よりも、一人の言葉、一人の写真、一人のストーリーに否応なしに焦点が当たってしまうのが共感です。

 

 スポットライトに照らされていない他の暗がりにある事象が見えなくなるだけならまだよく、場合によっては共感のスポットライトが照らさなかった人々への不寛容や攻撃に至る場合すらあります。

 その最たる例が戦争でしょう。アフガニスタン紛争などは分かりやすい事例で、戦争によってアフガニスタンに暮らす普通の人々に生じる苦難へアメリカの人々が共感することができていればあのような戦争は起きなかったでしょうが、それは同時多発テロへの共感に勝るものではなかったという、共感の数的誤認が生じた結果と言えます。アメリカ人の持つ共感のスポットライトは身元や顔の分かる同胞のアメリカ人犠牲者のみを照らし、アフガニスタン人に対しては不足する結果となりました。反対に、アフガニスタンのテロリストたちにはアメリカ人に対する共感が不足していたとも言えます。

 

 これは『正義』に近いものがあると私は考えます。『正義』も素晴らしい善なるものではありますが、それを闇雲にやたらと振り回して他者に強要することは決して善なる行為ではありません。同様に、『共感』にも多数の美点があるにせよ、それを振り回しては不都合が生じることもあるものです。

 

 つまるところ、共感は思いやりや親切といった善を生む源泉の一つであることは疑いようもないものですが、その範囲は狭く、公平でも公正でもなく、万人にとって道徳的と見なされる結果をもたらさない場合すらあるものです。

 よって共感その自体を否定するのでは一切ないものの、共感を道徳的指針として社会的な意志決定を行うのに用いるのは望ましくないとポール・ブルームは提言しており、私もそれに同意します。社会的な道徳的指針は可能な限り万人にとって公平で公正であるべきだと考えるためです。

 

時には共感への依存を避ける必要もある

 共感の力が強い人はスポットライトの光が強い人だとも言えます。

 それは対象を温かく照らす得難い資質ですが、あまりにも光が強いとスポットライトの光が当たっていないところはまったく見えなくなります。

 その結果、共感できないものは理解できなくなる認知バイアスが生じる危険が共感には存在します。

 主人公に共感できる物語は容易に頭に入ってくるのに対して、共感できない物語は全然読み進められず頭に入ってこないように、共感のスポットライトが当たらなかった集団や事象は理解の範疇外として頭の中から排除されることになります。

 それはやむを得ないことかもしれませんが、やはりそれは公平でも公正でもないでしょう。

 

 さらに言えば、共感を相互理解のための最適な絶対善のツールだと信仰することは少し危険です。

 その信仰はスポットライトが当たらない暗闇の部分を理解できない悪性のものだと誤認するリスクがあります。理解できないまではやむを得ないものとしても、理解できないものは悪でも敵でもありません、ただ理解できないというだけです

 共感を否定する考え方には共感できない、共感できないから理解できない、理解できないから嫌悪や否定の感情が沸き起こる。共感はこのような心理的な機序を生じかねません。

 本記事の序盤で提示した「共感を否定的に語るとは何事だ、共感は尊ぶべき素晴らしいものであり、善である。それを否定するなんてとんでもない」といった嫌悪や忌避感はこれが原因だと考えます。

 これは様々な所でよく見られる現象です。特にインターネット上での論争の場でよく見かけることでしょう。「ボクの意見に同意しない意見を出してきた、ボクに共感しない人の意見は理解できない、理解できないのだから敵だ」として、反対意見を敵だとみなして攻撃してしまう、そういった認知の誤謬は各所で起こっています。

 共感と理解、そして理解と善悪は本来別のものであるはずなのに。

 

 個人の意思決定であれば、手を差し伸べられる範囲にはそもそもの制限がある以上、このスポットライトによって手を差し伸べる範囲を選択することは現実的です。

 しかし、社会的な意志決定において万人に望ましい道徳的な判断を下す際には、少しスポットライトの明かりを落として視界を広げる必要があると考えます。

 

共感に依存しない道徳的指針

 子どもが池に落ちて溺れている。

 そんな状況を見かけたら当然助けに向かうでしょう。

 それは間違いなく道徳的な行為だと言えます。

 

 この行為に共感は必須ではありません。子どもが池に落ちて溺れているのを助けることは理性的な考えでも十分に道徳的かつ実行されるべきことであり、溺れる苦しみを共感によって感じずとも行うことができます。

 つまり共感は道徳の源泉の一つですが、共感だけが道徳を生むわけでもなく、教育によって培ってきた理性的な思考も道徳の源泉の一つになります。

 ポール・ブルームはこのような理性的な判断こそが社会的な道徳的指針に適していると述べており、私もそれに同意します。

 

結言

 個人の範囲で共感を意思決定の道徳的指針にすることは、程度によりますが多くは問題なく、それはむしろ人として望ましい姿です。それこそ誰かと旅行に行った際に(”同じように”楽しんでもらえたら嬉しい)と共感をベースに考えることは自然なことですし、とても良いことです。

 ただ、それが社会的な意志決定の道徳的指針にするには適していないと考える、それだけの話です。

 

 とても厳しい表現を用いてしまいますが、「可哀そうだと共感できるからこそ思いやりを持てる」だけでは「可哀そうだと共感できない対象には思いやりを持てない」ことになりかねません。あの集団は可哀そうだから助けるべきだがそこのホームレスたちは可哀そうに感じないから助けない、となるのは社会的な差別と同義です。個人の心情や思想はともかく、社会の意思決定はそうあるべきではないと考えます。

 共感によって思いやりを持てることはとても素敵なことで、しかしだからこそ、その素敵さを欠点で損ねてしまわないよう、適切な範囲で上手く取り扱う必要があります。

 

 もしくは、さらに単純化して述べるのであれば、『共感』と『思いやり』は別だということです。思いやりは共感以外からも生じます。

 夜中にお菓子を食べようとする子供を叱るお母さんは子どもの気持ちには共感をしていませんが、そこに思いやりと愛情があることは疑いようがないものです。共感が感情の善なる部分を全て独占しているわけではありません

 

 

余談

 人は道徳的であるべきだとするのは感情の話です。

 その指針を共感に置くか、理性に置くかの違いであり、どちらも感情的な生き物であることには変わりなく、感情の求める行動を理性的に行うことは矛盾しません

 ただ、共感に少しでも否定的な言説を呈すると「感情は無いのか」といった批判が起こりかねないので、どうにも『共感』に言及するのは難しいと感じる次第です。