忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

わざわざ苦しむ必要はないですよ

 

 まるで私が上位存在みたいなタイトルになってしまいましたが、別にそういうつもりはありません。持っている哲学が違うだけです。

 どの哲学を持つかは個人の趣味の話なので、そこまで深く突っ込むつもりはありません。

 

哲学は実学です(極論)

 政治や社会関連の発信を追っていると思うのですが、それらのクラスタではビックリするほど感情的な意見が飛び交っています怨嗟の声の多さには腰が引けるほどです。

 とてもとても辛辣になりかねないのであまり直球で語りたいことではないのですが、「何故わざわざ苦しんでいる」のでしょう?

 

 その苦しみは「気に入らない政治家が当選した」とか「イヤな法案が可決された」などの"外部環境"からもたらされているように見えるかもしれませんが、仏教的、或いはストア哲学的に見ると、それは自らが生み出している苦しみに他なりません。

 仏教的に見れば、この世は諸行無常の諸法無我であり自らの思うままになることなどまずありません。政治や社会の事象なんてまさに無数の自我の集合であり、個人がそれに対して影響を及ぼせない超越的な事象などではなく、誰もが影響を及ぼせる事象だからこそ個人の影響力は相対的に微小となります。

 そういった思い通りにならないことへの執着が苦しみを生むのであって、我執を手放せば苦しみを感じることは無くなります。俗に言う悟りです。

 ストア哲学的に見れば、世の中にはコントロールできるものとできないものに分けることができて、コントロールできないものに執着すべきではないと説いています。それらを理性で分離して外部状況に感情を左右されない心の平静こそが理想とする哲学です。また、そういったコントロールできないものに煩わされるのではなくコントロールできるものに対して自らがどう振る舞うか、どう行動するか、どう生きるかに集中することが美徳とされます。

 

 つまるところ政治や社会は「思い通りにならないもの」「自分がコントロールできないもの」の代表格ですらあり、それによって感情を動かすことはあまり意味がないと言いますか、わざわざ苦しみを生み出すようなことではありません。結果に対して感情を動かすのではなく、結果に応じて自らがどう行動するかを理性で決めればいいことです。

 

 ああ、やはりどうにも辛辣な感じになってしまいます。

 苦しんでいる人に「どうして苦しんでいるんだい?」なんて、まあ普通に考えれば傷口に塩レベルのあまりにも人情が無い話ですので、少なくとも対面で話すような内容ではありません。

 どんな哲学を持とうと個人の趣味の範囲ですので口出しすべきではないのですが、つい。

 

感情の必要性

 よりヘビィな話として、仏教的・ストア哲学的な思想の延長線である感情の是非についても語っていきましょう。

 

 人間社会において感情は強い意味を持っていますが、政治や社会に関連した事柄では"感情"の価値が殊更に高く見積もられています。

 共感による連帯が社会運動の原動力であり、苦しみに対する怒り、悲しみに対する希望の感情があるからこそ世の中を良くしようと人々は考えるのだ、そういった見方です。

 さらに強い意見となれば、「感情を揺さぶられないのは政治や社会に無関心だからだ」とまで言う人もいるでしょう。

 

 これは誤解です。

 感情的な関心の他に理性的な関心も世の中には存在しています。

 そもそも感情は付随物です。感情があって何かが起こるのではなく何かがあるから感情が生じるのであって、主従で言えば従に属します。その何かに対して生じた感情は用いようが用いまいが本質的には関係ありません

 例えばある法律が不公平な結果をもたらす可能性が高いとして、それに対して怒りの感情があるからこそ反対するのだと、感情的な関心を重視する人は言うかもしれません。

 しかし不公平な法律は法学的にも倫理的にも不適切だと理性的に反対することだって可能ですし、それに対して怒りの感情はあっても無くても関係ありません。不適切なものは不適切です。

 あるいは、雨が辛いから人は傘を開発したのだ、と言った例え話もあるかもしれません。

 しかしこれも同様に、雨によって服や荷物の不都合があることは事実であり、それに苦しもうが苦しみまいが人は合理的な理性に基づいて傘を開発するでしょう。

 

 物事において、感情は間違いなくトリガーであり推進力でもあります

 しかしそれが全てではなく、それが無ければ動かないわけでもなければ、それがあり過ぎるせいで舵取りが難しくなることもあります。

 道徳や行動は感情によってもたらされると考えるのは"感情"の価値を高く見積もり過ぎており、この辺りの論考は長くなるのでポール・ブルームの『反共感論』辺りを一読してみてください。

 

 個人的に分かりやすい例としては、過去の記事でも書いた「溺れている子ども」です。

 子どもが池に落ちて溺れている。

 そんな状況を見かけたら当然助けに向かうでしょう。

 それは間違いなく道徳的な行為だと言えます。

 

 この行為に共感は必須ではありません。子どもが池に落ちて溺れているのを助けることは理性的な考えでも十分に道徳的かつ実行されるべきことであり、溺れる苦しみを共感によって感じずとも行うことができます。

 つまり共感は道徳の源泉の一つですが、共感だけが道徳を生むわけでもなく、教育によって培ってきた理性的な思考も道徳の源泉の一つになります。

 ポール・ブルームはこのような理性的な判断こそが社会的な道徳的指針に適していると述べており、私もそれに同意します。

共感の持つ問題とその取り扱い:社会の道徳的指針 - 忘れん坊の外部記憶域

 

結言

 人様に面と向かっては言い難いですが、言いたいことは「わざわざ苦しむ必要はないですよ」です。不満や怒りは自らが生み出しているものであり、それを生じさせる必要はありません。

我慢は美徳か:苦しみの分類と我慢の是非 - 忘れん坊の外部記憶域

 

 感情を否定しているわけではなく、むしろ感情は人間にとって必要不可欠なものです。ただ、それに振り回されないよう理性と哲学をもって感情と付き合うべきです。

 苦しみを最小化すべきだと考える功利主義的リベラリストとしては、そこまで世間から賛同を得られなかろうとこの辺りの哲学を時々発信していきたいと考えています。

 

 

余談

 個人的な見解ですが、哲学の本質とは思考の取捨選択を可能にすることです。

 どうでもいいことを考えることが哲学ではなく、どうでもいいことを考えなくなることが哲学の極意だと考えます。だからこそ哲学は実学的です。

 

 もちろんこれは「利己的に自分のことだけを考えろ」とした意味ではありません。

 マクロな「自分ではコントロールできない」範囲について一喜一憂したり悲観的になったりするのではなく、マクロな問題に対してミクロな自分は何ができるかを考えることに集中する、それにこそ現実的な意味があります。