忘れん坊の外部記憶域

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我慢は美徳か:苦しみの分類と我慢の是非

 我慢とは苦しいことを耐え忍ぶことを意味する言葉です。

 世間一般には我慢をすることは美徳であると捉えられている節があります。辛く苦しいことを耐え忍ぶのは立派なことであり、優れていることだと。

 そんな我慢の是非について語っていきます。

 

苦しさの分類

 そもそも苦しさには種類があります。各所で様々な分類がされていますが、私は大きく分類すると二種類あると考えます。

 一つは外的なもの、過酷な状況や厳しい試練、世間の理不尽や否応なく訪れる変化、そういった自らの心とは無関係に生み出される苦しみです。

 一つは内的なもの、思うままにならないことや求めるものが得られないことによって感じる辛さ、そういった自らの心が生み出す苦しみです。

 

 仏教では苦しみを四苦八苦と分類しています。生苦/老苦/病苦/死苦を基本の四苦とし、それに愛別離苦/求不得苦/怨憎会苦/五蘊盛苦を加えたものが八苦です。

 このうち生まれることや老いること、病や死の苦しみ、それらは自らの心とは無関係に訪れる外的な苦しみであり、愛するものとの別離や求める物が得られないこと、憎み怨むものと出会うことや心身が思うままにならないことによる苦しみ、それらは自らの心が生み出している内的な苦しみだと言えるでしょう。

 

 苦しさの分類について、例を用いて説明します。

 例えば冬季の登山

 凍えるような猛吹雪、わずかに残った食糧、狭い雪洞に身を潜めて天候の回復を待たなければならない。

 そのような状況で感じる寒さや空腹、死への恐怖からくる苦しみは自らの心とは無関係に発生します。

 それに対して急に天候が崩れたことへの恨み、もっと食糧を持ってくればよかったという後悔、なぜ自分がこんな目に合わなければならないのかという怒り、そういった苦しみは自らの心によって生み出されます。

 

 例えば老いや病

 加齢や病気によって体力や気力が損なわれることは苦しみです。それによって思うままに行動ができなくなることも苦しみです。

 しかしこの苦しみには明確な違いがあり、前者は自らの心とは無関係な苦しみで、後者は自らの心が生み出す苦しみです。

 

忍耐を示すべきはどの苦しみか

 人の成長とは現在の自分が持っていない発想・知識・技能・経験などを得ることであり、そのためには新たな負荷が必要になります。そして負荷を受けることには大小あれど苦しみを伴います。

 すなわち、いつもよりも長い勉強時間、過酷な体力トレーニング、難易度の高い物事への挑戦、新たな環境へ身を投じることなど、己が身に降りかかる外的な苦しみである苦難、その負荷を耐え忍び乗り越えることこそが成長に資するものです。

 だからこそ我慢は美徳であると人々は語ります。外的な苦しさを我慢して乗り越える、それは人が成長するために必要となる避け難いイニシエーションの一種です。

 

 しかしもう一方の苦しみ、内的な苦しみについてはどうでしょうか。

 外的な苦しみは環境や状況によって己が身に降りかかる付帯的なものであるのに対して、内的な苦しみは何らかの外的要因に応答して自らの心が生み出した付随的なものに過ぎません。

 つまり、内的な苦しみはあってもなくても変わらないものです。

 むしろこの内的な苦しみは程度によっては成長や生活の阻害要因にすらなります。修練や試練の苦しみは結果を出すために避けるべきではない苦しみであるのに対して、それを辛いと思う心の苦しみは成長に資するわけでもなく、むしろ不要なものとすら言えるでしょう。

 

 簡単に言えば、同じ苦労でも嫌々やるより楽しんでやったほうが楽であり、この嫌々の気持ちを我慢することは美徳ではない、ということです。必要なのは苦労に対する我慢だけです。

 

結言

 我慢が美徳になり得るのは外的な苦しみを耐え忍ぶ場合に限定されており、内的な苦しみに耐えることではありません。

 心が辛い状態とは「こうあるべきだ」「こうあってほしい」という自我が「そうなっていない」現実とのギャップに悲鳴を上げているのであり、厳しい表現とはなりますがそれを我慢することは本質的に無意味です。

 

 理想的には自我の錯誤が生み出している心の苦しみを生じないようにすることが望ましいですが、それはなかなか難しいと思います。

 ただ、その苦しみを我慢することには意味が無いのだから、避けてもいいし、耐えなくてもいい、そう思えば少しは気が楽になるでしょう。心の苦しさを我慢することはまったくもって必須ではありません。

 

 今回は例示が多いのですが、最後にもっと単純化して、人間関係の話に落とし込んで終わりにしましょう。

  • 厳しい人の指導を耐え忍び我慢することには意味があります。
  • 厳しい指導を苦しいと思う気持ちは自らが生み出している苦しみであり、必須ではありません。その苦しみを我慢しなくていいよう捨て去ることが望ましいです。
  • 嫌な人の指導を耐え忍び我慢することには意味がありません。

 なんでも我慢すればいいというわけではなく、美徳である我慢と、必要のない我慢、これらは適切に分けていきたいものです。