心理療法の一つに集団精神療法があります。
専門ではないので詳述は避けますが、集団精神療法とはうつ病や不安症、統合失調症など精神的に不調な人々で集団となり、他愛のない話をしたり、あえて積極的にポジティブな話をしたり、それぞれが抱える問題について話し合ったりすることで精神的な問題の解消を図るセラピーです。効果自体はファシリテーターの能力次第となりますが、薬や手技を用いず安価で、同時の複数人への治療が可能であり、社会的に隔絶しがちな方々の社会性を維持することができるなどの利点があります。
他者に自らの不安を話す行為は、上手くすれば自らの不安を言語によって外部化して切り離すことが期待できるものです。モヤモヤした不安を言語によって形付けることは不安を自らの掌中へ収めることに繋がることから、「人に話せば楽になる」はまったくもって現実的な事象だと言えます。
この手法は心理療法に限らず、自己啓発セミナーや宗教団体などでも活用されています。傍観者的なポジションでしたが、個人的にそういった集まりには幾度か参加したことがあり、集団精神療法と同様に自らの不運とトラウマを共有し合う様を見たこともあります。
そういった光景を見ていて私が考えたことは、不運とは不幸とイコールではないということです。
不運と不幸の違い
人によっては不運が続くと不幸を感じるかと思いますが、不運と不幸は異なる概念です。不運とは運が無いこと、自らの関与できない環境的な要因によって期待した結果が得られないことを意味しており、不幸とは幸福ではないことを意味します。
人は期待した結果に至れれば幸福を感じられるものですので、不運によって期待した結果が得られなければ不幸を感じるのは心の自然な機序かと思われます。
しかしながら、不運は外的なものであるのに対して、不幸は内的なものです。不運は避けようがないアンコントローラブルな事象として訪れますが、それによって不幸を感じるかどうかは自身でコントロールすることができます。
自己啓発セミナーや宗教団体などで行われている集団対話において語られる「自身の不幸」と「努力や信仰によってそれを乗り越えた結果の幸福」はまさしく不運と不幸の切り離しそのものです。
もちろん努力や信仰に依存することが健全かと言えば一概には断定できないものの、少なくとも何かしらの信念によって彼らは不運と不幸を切り離す心理的作用を得られていると言えます。
結言
努力や信仰に依存するのはハイリスクだと個人的には考えており、不運と不幸の切断は何もそういったものに頼らずとも集団精神療法と同様に理性的な方法で可能であり、できることであればそうすべきだと思っています。
つまりは、以下のような考え方です。
ルーシー:「Sometimes I wonder you can stand being just a dog…」
「時々、どうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うよ。」
スヌーピー:「You play with the cards you're dealt…whatever that means.」
「配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ。」
運が無いからといって不幸を感じなければいけないわけではない、それは日々を幸福に生きていくために重要な考え方の一つです。
余談
思い返せば、この辺りの考え方については過去にも幾度か述べています。
私自身は運命論をある程度信じています。遺伝や環境に依存するものは多々ありますし、それは個人の努力ではどうにもできないことです。それこそ自然の意思や神のようなものが存在するのでしょう。
しかしそれに唯々諾々と従うかと言われれば私はそうは考えません。私は私の出来る範囲でより良く生きることができるようゴールを決めて努力するつもりです。手の届かない範囲は運命かもしれませんが、手の届く範囲が無いわけではないのですから。
運命論は諦めだと思われるかもしれませんが、私はその運命の中で足掻き続ける諦めを知らない運命論者であることを望みます。
今よりも多く得たいという人間の欲を否定はせず、得るものを増やしたければ智慧を磨き自己を律し努力を怠らないこと。
しかしその努力によって得てきたものや得たものに不満を持つことは戒める。得られたものに不満を持つことは自身の努力以上の対価を要求する乞食となりかねないものである。
己を理解して、己の欲に打ち勝つ人であれば得たものに満足することができる。
満足はゆとりを生み、それゆえに豊かな心を持つことができる。
つまり「足るを知る」とは、今あるもので満足するのではなく、得られたものに満足することだと解釈します。
例えば、お金があると大抵の人は嬉しいじゃないですか。でもお金が無くなると悲しくなりますよね。
また、お金をたくさん持っていても失う恐怖は残りますし、維持することには苦しみが伴います。
お金が無くても楽しくする、のはただの諦めや我慢に過ぎません。それはお金が欲しいという欲を抑えているだけであり、やはり苦しみが生じます。
欲の無い状態とは、「お金があっても無くても楽しい」ことです。