忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

主義主張としての中道

 当ブログで度々述べてきていますが、私は極端よりも中道を好みます。世間における一部の人は中道の姿勢を好まないことがあることを知りつつも、意図的かつ積極的に中道を目指している次第です。

 今回は中道の姿勢がどのようなものか、個人的な中道の取り扱いではなくもう少し全体としての中道を説明してみます。

 

中道はどっちつかずの真ん中ではない

 中道に対する特に多い批判は「どっちもどっち」「どっちつかず」「妥協的」といった意見です。

 これは中道に対する双方の誤解によって生じていると考えます。双方というのは批判側も、批判される側もです。

 中道とは妥協や中立を求める思想ではありません。誤解を恐れずに断言すれば、客観や価値中立ですらありません。

 なにせイデオロギーとして自ら中道を選択している以上、中道は両論の客観的な仲裁役ではなく、両論の中立的な傍観者でもありません。時に必要であれば両論と論戦をすることも辞さないのが中道です。よって妥協を提案する日和見や議論の場に立ちすらしない冷笑は中道と呼ぶに値しません。

 

 中道とは2つの物事の中間ではなく、それらの矛盾対立を超えたより良いところを目指す主義主張です。ヘーゲルの弁証法で言うところのジンテーゼが近い概念でしょう。

 より良い結果をもたらすためであれば、必要に応じて片方の意見を重く用いることもありますし、時には両論を共に否定して、場合によっては組み合わせます。両論の真ん中に立ってバランスを取るのではなく、双方の利点のみを抽出してより優れた結論へ至ることに注力します。

 旗幟鮮明に自らの立ち位置を堅持する他者の姿勢を否定するものではありませんが、極端・偏りを避けて”より良い位置”を模索し、”より良い結果”を目指す試みこそが中道です。

 このように中道は「両論の中間に立つ思想」ではありません。両論の真ん中を常に選ぶということは真ん中に偏っているのと同義であり、それは中道とは呼べないものです。全てはより良い結果のために、そのために動き回って考え抜くことが中道であって、立ち止まっている日和見主義や傍観している冷笑主義とは一線を画します。

 

 もちろん信念を曲げないことを良しとする人からすれば好ましい態度ではありませんし、中道は少なくともそのような人々の味方ではありません。場合によっては敵ですらある以上、好かれないのは仕方がないことです。

 また、私は個人の趣味嗜好から穏健に中道を目指す穏健派であり、私が過去に述べてきた中道に関する意見も全て穏健派の視点からですが、中道主義者が必ずしも穏健だとは限りません。両論と喧嘩をしてでもより良い結果を模索する過激な中道主義者だって居ます。その点も日和見主義や冷笑主義とは異なります。

 

結言

 つまるところ中道とは、「より良い結果を目指す理想主義者」の側面と「具体的な方策を模索する現実主義者」の側面を両方持ち合わせた、理想を追い求める現実主義者です。そのため、純粋な理想主義者や現実主義者にはあまり好まれないかと思われます。

 

 

余談

 私に中道的姿勢が育まれたのは恐らく大学時代です。

 当時の専門はメカトロニクスでした。

 メカトロニクスは面白い学問で、極めてプラグマティズムです。他の機械工学、例えば材料系の人は材料のことばかり勉強しますし、制御系であれば制御のことばかり勉強します。メカトロニクスはそういった専門性を深掘りしていく方向ではなく、目的のメカを作るために役立つものはなんでも使えの精神です。

 メカトロニクスは機械・電気・電子・情報など様々な分野の融合、と言えば聞こえはいいですが、実態はつまみ食いです。それらの分野で役に立ちそうなものがあれば借用し、必要なところだけを抽出し、目的達成のために活用する学問です。便利そうな材料があれば使い、必要な機構だけを学び、目的のメカに役立つ制御を利用してメカを組み立てていきます。目的は良いメカを生み出すことであって、そのために合理的な行動を行っています。

 それぞれの分野の美味しいところだけを齧って目的を達成しようとする姿勢は実に中道的でしょう。そしてそれぞれの専門から好まれないのは、止む無しです。