忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

思考がどこかに偏るのは環境要因が大きい

 良く言えばポジティブ、悪く言えばアッパラパー、間を取って楽観主義者を自称する私ではありますが、これは生まれつきのものや意志の力よりも幼少期や現在の環境に大きく依存すると考えています。ある程度の傾向は幼少期の環境によりますし、今現在の心持ちは今現在の環境が強く影響するものです。

 この場合の環境とは幅広い意味で、自らの思考以外の外部条件を意味します。よって周囲の状況や接する人々、与えられる情報や感情のみでなく、自らの身体状況も含みます。

 どんな人だって状況によって前向きであったり後ろ向きであったりするものでしょう。腹が空けば苛立ちますし、悲しいことがあれば悲しい気持ちになります。いきなり返せないほどの借金を抱え込めばどれほど前向きな人だってポジティブな気持ちが萎縮するでしょうし、その逆もしかりです。いえ、急に大金が振り込まれたらポジティブになるかというと、まあ、ええ、人それぞれでしょうけども。私はたぶんポジティブにはなれずむしろ恐怖を感じます。

 閑話休題。考え方のベクトルを変えることは何も悪いことではありません。むしろ状況に適応できない人のほうが頑迷固陋であり、「常にポジティブでなければならない」「常にネガティブであっても仕方がない」と片側に囚われているほうが問題です。

 その例として、楽観主義をベースとする私が高熱を出して3日ほど寝込んでいた間に朦朧とした頭で【書くことメモ】に書いたことをあえて開陳してみましょう。いつもの敬体ではなくメモで書いている常体そのままで出します。

 いつもの楽観主義はどこへやら、想像以上にネガティブでびっくりします。熱が下がり思考力が戻ってから読んだ私がまずびっくりしました。体の調子が悪いという環境要素は思考を容易にネガティブへ寄せるのです。

 ・・・まずもって寝込んでいる間にまで【書くことメモ】を書いている習慣の強さにびっくりですが。

 

例1)善人の枠が広くはないか

 世に善人と呼ばれる人は多いかもしれないが、その人々の多くは真に善人と呼び得るか。時に「悪行を為していない人」までを善人と呼称してしまっている場合があるのではないか。

 世は悪人と善人に二項分類できるような単純なものではない。個々人においてもグラデーションを持っているものでありそもそも単純な分類ができない点もあるが、何よりも悪人とは意識的にせよ無意識的にせよ「悪行を容易に為し得る者」が呼称される呼び名であり、悪行を考えるだけで実行しなかったり正当防衛等で止むを得ず悪行を為した者を悪人とは呼ばない。

 反転し、善人と呼ぶべきは「善行を容易に為し得る者」、すなわち自然体で善行を為す人こそがそう呼称されるべきであり、善行を考えるだけで実行しなかったり周囲の要求等によって止むを得ず善行を為した者を善人と呼んでいいものか。

 実のところ善人と認証されるには容易ならざる壁があり、善人と呼称される多くの人は環境や周囲、自身の欲求などからの必要に迫られて善行を為しているだけの普通の人ではないだろうか。

 

 所感:寝込んでいる時に善悪を考えると善の幅が偏屈に狭くなる

 重要なのは結果であって、善行を為しているのであればそれがどんな要因であっても善人で良いと思いますよ・・・?

 若干極端な物言いになりますが、悪人を明確に区分して社会的に識別することは必要なことですが、善人の幅を狭くすることは別に役立つ思考じゃないと思いますし。それはただの偏屈というものです。

 

例2)環境が悪いと語る人

 より良い土があれば花咲けると語る者がいるが、では場末の三文役者を大舞台に上げたとしてどれほどの演技が期待出来ようものか。如何に環境によって育ちが違うとはいえ、今の自身に相応の環境であることには変わりない。まずもって行うべきは環境への不平ではなく、より良い環境へ適応するための自身の能力である。

 海が嫌だと陸へ上がる前に、まずは肺呼吸を身に付けねばならぬ。

 

 所感:調子が悪い時は自己責任論が強くなる

 海に居て肺呼吸が身に付くわけなかろうに!(ノシ・ω・)ノシ バンバン!!

 花咲くのに必要なのは能力の向上と環境の変化の双方であり、これらは相互作用を持った両輪です。能力と環境どちらが良い悪いという極論で語るものではありません。

 また、底なし沼にハマっている人に対して「環境が悪いとか言い訳だわ、お前の能力不足だろ」なんて物言いをするのはひどい話です。先に述べた善悪と同様に状況で変わるものであって、能力と環境の二項分類による決め付けは大体の場合無用です。

 

視野が狭まると二元論に陥りやすい

 自分で書いた文章に自分でツッコミを入れるという不思議な記事になりました。

 総じて、常日頃は中観派の思想を良しとして、臨機応変、中道を維持し、二項分類の片方に寄るべきではないという思想を旨としている私ではありますが、その思想も肉体的不調という周囲環境の変化によって容易に中道から外れて偏ってしまうことが分かります。環境によって余裕が削られると視野が狭まるというわけです。

 環境の変化は自力ではどうにもならないことばかりですので、視野が狭まっていること、立ち位置がいつもとズレていると感じることができるよう、メタ認知を鍛えることが自己を保ち健全に生きる上でなにより重要かと考えます。

 

愚見

 中道に立つ人を日和見主義者と嘲る人も居ますが、実は中道を維持するというのは簡単なことではありません。ある事案に対して中間に立つのはさほど難しくありません、しかしそれを常に何事においても維持するというのは案外大変なものなのです。

 天秤を保つのは難しく、傾けるのは容易です。環境に負けず常に天秤を保てるよう精進していきます。