どこかの誰かに向けて言うわけではないけれど、きっとどこかの誰かには厳しい話。
よくある日常
上司「企画部の一人が育休に入っちゃったらしくてさ、悪いんだけどちょっとそいつの代わりに顧客のところへ今度行ってきてくれないか」
私「それはうちの仕事ですかね?まあ、しゃーないですね」
・・・
私「というやり取りがあったから、今度顧客のところに行ってくるよ」
同期「なんでだよ。明らかにお前の仕事じゃないだろ。代打はあっちの部署で出せばいいわけで技術屋が引き受ける話じゃないんだからそんなのノーウェイトで断れや」
私「あー、まあ、たしかにね」
実によくある流れです。
私も上司も基本的に断らない側の人間なので、あっちゃこっちゃから日々いろんな仕事が舞い込みます。
善良な人
善人、すなわち「善良な人」とはどのような人かと言えば人それぞれ異なる人物像を持っているかと思いますが、頼みごとを引き受けてくれる人や困った時に助けてくれる人は概ね善人の部類としてもよいでしょう。
その点からすれば、なんでもかんでも頼みごとを引き受ける私は一応は善人の部類に入るかもしれません。自らそう名乗るのは面映ゆいどころか傲慢ですらありますが。
私の断らない性格は家庭環境に強く依存していると考えています。
父や母が誰かの頼みを断っているのは見たことがありませんし、何かしら地域の会長やグループのリーダーなどを大体二つ返事で引き受けていました。姉や私もクラス委員長やら部活動の部長やらをよく任されていましたし、妹は末っ子らしくそういった面倒ごとは要領よく避けていたものの仕事の代打で休んだ人の代わりによく出勤しています。集団の管理から細々とした雑務まで、概ね何でも引き取ってくる家系です。
もちろんまったく断らないわけではなく、引き受けるのは自らがこなせる範囲に限定されます。例えば命には責任を持てないことから捨て猫を拾ってくるようなことはありませんでした。
やれないことはさすがにやれないものの、届く範囲であれば手を伸ばしていく。自らを善人と名乗るのは烏滸がましいものの、少なくとも私の両親や姉妹は間違いなく善人だと思っています。
そんな善人に囲まれて育ってきた私の考え方としては、頼まれたら引き受けることが普通であり、断らないことが自然体です。引き受けたことに起因する心労や痛苦を感じることは特にありませんし、断れなかったと自責を感じることもありません。好きで楽しんでやっていることであり、むしろ断るほうが苦痛なくらいです。
善人の素質と価値
人に利用されることが辛い。
誰かのために努力することが苦痛。
人のために何かをすることで疲弊する。
そういった性質の人は善人になろうとしなくてもいいと思っています。とても厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが。
スポーツ選手や芸術家のように、人が何かになるためには素質が必要です。
同様に、善人になることにも素質が必要だと思っています。
人によってはとても厳しく聞こえるかもしれませんが、そういった素質の無い人が善人になろうとするから辛いのではないでしょうか。
そもそも、善人になりたいと思っている人や世間全般が善人に価値を置き過ぎていることが問題です。それは善悪二元論のしがらみが強すぎます。
善人でなければいけない、なんて考えはただの呪縛に過ぎません。善人でなければ悪人であるわけでもなし、それはただの普通の人であり、普通の人であることは何も問題ではないでしょう。
言ってはなんですが、私や私の家族のような属性の人は「善人たれ」と行動しているわけでも崇高な思想を持っているわけでもなく、「好きなことをやっている」だけです。ドラマを好きな人が毎週ドラマを見るように、サッカーを好きな人が週末にサッカーをやっているように、頼みごとを引き受けることが好きだから引き受けているだけであり、そこに大した価値も意味もないどころかむしろ独善的であるとすら言えるでしょう。
つまりは趣味がたまたま人の役に立つ、それだけの話で、それはただの偶然です。そこに重きを置き過ぎる必要は無いと考えます。
結言
私が頼まれごとをした時に頭をよぎることは
(それは今の自分の能力や時間で出来るだろうか)
ですが、恐らく人によっては
(断ったらどうなるだろうか)
とか
(良い人に思われたい)
といった気持ちを持つ人もいると思います。
それは多分しんどいだけですので、あまり推奨できません。もちろん善人になろうと努力をする人を否定するつもりはありませんが、その欲求はどこかで線引きしたほうが幸福になれると考えます。
昔の漫画『げんしけん』にあったセリフ「オタクはなろうと思ってなるもんじゃなくてさ、気付いたらなってるんだって」を勝手に名言だと思っているのですが、善人もまあ同じなんじゃないでしょうか。
無理になろうとするから辛いのであって、善人なんてものは素質があって好きでやっている人に任せておけばいいと思います。
少なくとも無理をして善人を演じる必要はありません。善人じゃなきゃダメだ、なんてことは決してなく、背が高いとか声が奇麗だとかそういったものと同じで、個性の一つというだけのことです。